変身|Franz Kafka
非常に有名な海外作品で、私もなんとなく内容を知っていました。読んでみると実存主義に基づく不可解な物語に、違和感を抱きながらも引き込まれていきます。
主人公の名前が一般的には『グレゴール・ザムザ』が多いようですが、私が読んだ版では『グレーゴル』と表記されていたので後者で統一します。
変身

Franz Kafka(著)
高橋義孝(訳)
新潮社
1952年7月28日
あらすじ
ある朝、グレーゴルが目を覚ますと巨大な毒虫になっていました。こんな異常事態でありながら考えていたことは、外交販売員としての仕事の苦労のことです。すでに汽車に乗る時間を逃してしまい、仕事に遅刻することが確定。
時間に心配した両親が起こしに来るがうまく返事ができません。相手の言語は解るが、虫の状態ではこちらから発声して伝えることができないのです。ついに職場の支配人が訪ねてくる事態に発展し、彼は自らその姿をさらしました。
グレーゴルは虫であることに順応し、家での居場所を失い、人に傷つけられていき…最後に彼がとった選択とは――。
感想
とにかくシュールな設定が目を引きます。しかし「虫になったこと」それ自体には意味を持たせていません。最後まで虫になった理由の説明はなく、その状況が当たり前かのように淡々と進行していきます。
こんな不条理に見舞われても、仕事のこと、家族のこと、そしてお金のことなど、彼は常に他者のためを想っていました。それが虫になってしまったばかりに、家族に気を使って怯えながら生活し、人間としての尊厳は急速に失われていきます。
仮に変身していない前提で状況だけを整理すると、グレーゴルは家族を養いながら嫌いな仕事を続ける重圧からノイローゼになった、とも捉えられます。虫になった設定だけを取り除けば現実にあり得る話で、まるでグレーゴルにふりかかった事故のように思えます。なぜ虫になったのかといった問いは一切なく、誰も気にせず、それこそふいに日常を襲う不条理性を描いているようです。
それでも生きていかなければならない、ここに本作の実存主義的な意図が見えます。
グレーゴルが変身した虫
基本的に特定の虫を定めていないようです。作中でもグレーゴルは極力他人に自分の姿を見せないようにしているので、客観的な彼の姿を表している描写はありません。
作者のカフカ自身、作品としても虫の姿を見せて読者にイメージを固定化させるのは避けたかったようです。その根拠に彼は、扉絵や挿絵に絶対に虫の姿を描かないよう要求していました。
実存主義と不条理
虫になったことが事故だと前述しましたが、これもまた現実に置き換えられそうです。
例えば不慮の火災で顔を火傷して醜い姿になったとする。この容姿に対する不条理な事故という点において、虫になろうが、顔を火傷しようが、その原因や本質を追求しても意味がない。事実は事実とただ受け入れて生きるしかありません。これが実存主義。
実存は存在そのもの、本質はその存在が作り上げる目的や意義だが、起きた事故に目的や意義なんてありません。
これらの解釈を広げていくと、人間というのは本質をもたずにこの世に産み落とされるものだと思えます。本は知識を与えるために書かれるし、時計は正しい時間を刻むために生産されます。人間もなにか運命や使命に定められていると思われるでしょうか。しかし人間は自分の未来を選択する能力があります。
「何のために生まれてきたのか分からない」という悩みは多いですが、本質を伴わないまま右往左往しながら生きていくから、誰もが常に不安をかかえているのです。逆に言えば何にも縛られない自由であるということ。
人生において常につきまとう不安から逃れるために目的や意味を求めるのではなく、自由な意志と選択をもって主体的に生きるのです。当然その自由には責任も伴うが、だから生きるのは楽しい。そう哲学者のサルトルは言っています。
この実存主義的な思想で、不条理に抵抗していくさまを文学に落とし込んだのがカフカの変身です。












