2024-09-23

【罪と罰】世界的文学を日本社会と若者に置き換えた名作パロディ漫画

著者出版
落合尚之アクションコミックス:全10巻

文豪ドストエフスキーの罪と罰を、19世紀ロシアから21世紀日本に移し替えて改竄された物語。
ラスコーリニコフの「小さな罪悪は多くの善行によって購われる」という犯罪理論から発する。
学校も仕事も行かず、人を遠ざけ部屋に籠って無益な空想に耽って、プライドが高くそれゆえに孤独な青年。頭は良くて理屈はこねるけど、人として愚かな、地に足のついていない知識人。答えの出ない堂々巡りの考えに取り憑かれていつしか現実を見失う。
こんな人はラスコーリニコフが遥か先の時代を先取りしたのではなく、いつどんな時代にもあった普遍的な若者の悩みの一つなのかもしれない。

自由と民主主義。崇高な目的の達成が流された血をあがなうだろう。

戦争国における誤爆によって民間人が死傷した事件の記者会見

あらすじ

崇高な目的こそが手段を問わず何かを実現する資格を得られるものとし、弥勒がある事件の計画を実行する後押しとなった。

計画実行編

主人公、裁弥勒(たちみろく)は、大学にも行かず退廃的な生活を送っていた。家族の期待に応えることと、自分の好きに生きることのジレンマに苦しんでいた。なんにせよ、とにかくいま必要なのはまとまった金だ。

ある日、身売りしてる女子高生リサに出会い、その斡旋業者の連絡先を得る。女子高生たちを尾行して、彼女らの援交の実態、金の受け渡しなどを調査し、それが思いのほか大きな事業主体であることに気が付く。単なる援交グループではなく地域の少女たちに客を斡旋して、売上を吸い上げる売春組織。そのリーダーがヒカルという女子高生だった。

ヒカルが売春斡旋を事業として続けるには、ヤクザに上納金を納める必要がある。その集金のタイミングが計画の好機となる。受け子とヒカルが会う日時を確実に把握できれば計画を遂行できるが、執拗に組織を嗅ぎまわった弥勒はヤクザに目を付けられてしまう。

そんな矢先、女子高生リサが個人的に弥勒に接触してきた。組織から抜けたいという相談で、弥勒は彼女に協力することを了承しつつ、組織の売上金の受け渡し日を聞き出した。

弥勒は自信が大金を手にすることを売春組織の崩壊を大義に、ヒカルの殺害と上納金の簒奪を決行する。しかし想定外のきっかけから、弥勒の味方であった女子高生リサまで殺害していまう。

崇高な目的のために許されたはずの流血は、早くも弥勒の精神を蝕んでいった。

特別捜査本部発足

事件はすぐに明るみになり操作が始まった。「青戸女子高生二人殺人事件特別捜査本部」が発足。

完全犯罪で逃げおおせたと思っていたがすぐに警察から連絡があった。警察署へ向かうと、昔盗難届を出した自転車が見つかったから引き取ってほしいとのこと。

警察署からの帰り、以前弥勒の動向にくぎを刺してきたヤクザを見かける。ヒカルが死んだ日に上納金が宙に消えたのだから、ヤクザが動き出すのも当然だ。結果的に弥勒は警察にもヤクザにも追われる立場になっていた。

大学生編 夢の中

学生時の弥勒は付き合いが悪く、周囲からも浮いた存在だった。それでも気軽に声を掛けてくれる男が矢住だった。苦学生である弥勒に下請けの仕事を回したりと気を使って声をかけるが、弥勒は他人からの親切を施しや上から目線のように受け取り、すべて断る性格だった。

ある日研究室に呼ばれた弥勒は大学のOB首藤を紹介された。その男の欲望に忠実な生き方に嫌悪と同時に、抗いがたい魅力を感じる。

首藤が受け持つ形で弥勒は商社にインターンシップをするも、会社では典型的な受験エリートの使えないコミュニケーション不足だと評されていた。

同時にこのころに文学誌での新人賞デビューを目指し執筆活動をしていた。

首藤は人を殺したことがあるらしい。弥勒は犯罪心理の小説を書いていたこともあり、もしそうであるなら、殺人を犯す際の心理について興味を持っていた。そんな弥勒に首藤は人間を人間たらしめるものを教えてやろうと、テレンティウス「人間的なことは何によらず私と無縁ではない。」を説く。

首藤は人を殺す瞬間の心理描写を書きたがっている弥勒の文章が、格調高く文学的だが中身は空っぽだと一蹴。考え過ぎてリアリティがない、やくたいもない空想にふけってばかりいるなら現実に触れてみるべきなんだと。

だから首藤は弥勒を繁華街の裏に連れて行った。哀れな異国の女たち、ブローカーに騙され母国を離れ、借金を盾に身体を売らされている、そんな彼女らの魂を好きなだけ踏みにじって汚すことができる。苦痛と感じるか快楽と感じるかは知らないが、人を殺すときの何分の一かでも気持ちを味わえるだろうと女をあてがうのだ。

弥勒は外の世界に触れて自分を見直すときも必要だとわかってはいても、そこが見るに値しないつまらないとこだったら、むしろ眼をそむけたくなるほど腐った世界なら、そこで出会うのが下らない人間や下劣な人間ばかりなら何を学べるだろうかと首藤の誘いを断る。

後に弥勒が書いた「収穫者の資格」は、首藤が期待して手をかけた作品の完成には及ばず、佳作どまりとなった。

五位検事の思惑

事件発生から6日、警察の捜査は続いていたが検問等の警戒活動は縮小していった。その中で警察署の五位検事は、弥勒が自転車を取りにきたときから目をつけていた。任意の捜査協力で呼び立てられた弥勒は五位検事と対峙する。

五位検事は文学好きで、弥勒が文学誌で佳作を受賞した「収穫者の資格」を知っていた。とくに注目していた、殺人者が語る殺人哲学「資格を持つ者には手段として殺しも許される」について論じ合う。

彼はある鋭い質問を投げかける。弥勒自身が非凡人でその資格というのをを持っているのか。弥勒は実際のところ分からないがそうありたいとは願うと答えた。そして「では今回の事件の女子高生殺しの犯人が資格を持った非凡人だったか」と尋ねる。

殺人者である弥勒はこの質問には答えられない。殺人者を認めれば自首するようなもの、否定すれば自らのプライドを傷つけて作品を否定するから。犯人しか知り得ない「崇高な目的達成の資格」は喋ることができないからだ。

五位検事は弥勒の執筆の参考になるという建前で、事件の被害者リサの母親の病棟へ連れていく。彼女はリサを殺されたショックで心神喪失している。犯罪小説において社会の強者と弱者、そんな力への意思をテーマにもつ弥勒に五位検事が本当に見せたかったのは、力の行使に巻き込まれた弱い人間の姿であった。それこそが観念の世界で自己完結せずに、生々しくて、リアリティのある人物造形になると。

作品で世界を変えたいというのなら、そのロマンには現実と拮抗し得るだけの強度がなくてはならない。もしこの病室に入って現実を直視できないなら、世界を変えるなんて夢のまた夢だと弥勒を挑発する。

そして本当に弥勒が世界の変革者たる資格を持つのであれば、平然とこの病室の扉を開けてくれるのではないかと期待していたのだ。そうして作家としてのプライドと、殺人者としての疑いを天秤にかけて弥勒をゆすぶった。

弥勒が病室に入ろうと逡巡している瞬間、テレビ速報で事件を180度転回させる事実が判明する。弥勒が事件を撹乱するために打っておいた布石で、スケープゴートとなる人物が逮捕されたのだ。

五位検事は弥勒を窮地に追い込んだが、すんでのところで2人の対決は預けられることとなった。

弥勒の自白

スケープゴートによって警察からもヤクザからも逃げきって最大の危機は去った。しかしこの最大の秘密がある限り、弥勒は今後誰とも本当の意味で分かり合うことはできない。そんな孤独感に襲われるようになる。

孤高を貫いていくことも、無垢に自分の生命を信じることもできない、結局は凡人だったことにようやく気が付いた。

罪の告白を聞いたのがあの首藤だった。事件のニュースを耳にして、直感で弥勒がなにかしら絡んでいると思ったのだ。その話をすべて聞いたうえで首藤は弥勒を肯定した。それを理解できるのは首藤だけでもあった。

弥勒のもとに再び現れた首藤は、欲望に忠実な裏の世界に引き込もうと誘う。

五位検事の説得

弥勒が家に帰ると五位検事が待ち伏せていた。五位検事は弥勒が真犯人であることを確信していたが、事件の真相を揉み消そうとする警察庁上層部の圧力によって、事件の担当からは外されていた。最後に弥勒の良心に訴えかけるため、捜査ではなく個人的に訪ねてきたのだ。

部屋に入るなりよどんだ閉め切った空気に辟易して簡単な掃除と換気をした。薄暗く空気のよどんだ部屋に一人でいると、空想をもてあそぶことをやめられなくなってしまうのは往々にしてあること。弥勒の部屋もそんな空想の物語の世界にとらわれている。人間には新鮮な空気が必要で、窓をあけ放して風通しを良くしないと、どんな立派な思想も独善にしかならないと諭した。

償う機会を失ったまま一生を生きていくのは、心に秘密がある限り誰とも笑い合うことはできない、それこそ閉ざされた世界で生きることは閉め切った部屋と同じ。一人ぼっちの世界で人間の生きる道じゃない、石や岩が過ごす沈黙の時間、永遠の孤独だ。真の人間なら耐えられるはずもない。

自分の想念に囚われて孤独の牢獄で暗い空想に耽ってきた、観念の暗闇で心を石にしてきた弥勒ならわかるであろう。その結果があの凶行である。手遅れではあるが、まだかろうじて人間としての良心が残っているのなら、人の気持ちに応える心があるなら、今が最後の決断のとき。

どんなに償っても永遠に許されることはないだろうけど、それでも償い続けるしかない。死刑かよくて無期刑であろうが、希望はその先にある。絶望を踏み越えた先に本当の人生が待っている。

その本当の人生とは決して特別なことではなく、ただ生きていくことだ。働いて日々の糧を得て暮らし、人と関わり世の中に身の置き場を見つけ、愛し合い傷つけあう、それを死ぬまで繰り返し、単調で忍耐のいる作業、つまり生活である。誰もがやっている至極当たり前のこと。だから償ってその生活を取り戻す。

絶望をくぐり抜けて手にするのが平凡な普通の生活だということを割に合わないと思うかもしれないが、二人の少女と事件にかかわったすべての人からその平凡な暮らしを奪ったのだから高望みはできない。そして実はその当たり前のことが尊いのである。

人間らしく人生を全うすることは、作家が歴史に残る一作を書くのと同じくらいの偉業かもしれない。絶望を知らずにすめばそれにこしたことはないが、絶望を知りそれでも希望を捨てない人間がいるなら、その人こそ真に誇り高い人間だと思う。心に誇りがある限り誰もあなたの尊厳を損ねることはできない。

そういう人間になるべき、誇りある人間の道を歩いてほしい。

五位検事は事件の真相、弥勒の心情を見透かした上で、最後は彼の誇りに訴えかけて去っていった。

猥雑で残酷で、だから世界は美しい。たっとひとりで歩いてきた絶望の荒野の果てに弥勒が見つけた新しい光とは。ついに己が罪と向き合い、事件は結末をむかえ完結。

感想・書評

立派な人間とは。

品行方正で人に優しく、公正で公平、思慮深く聡明で間違いを犯さない。でも果たしてそんな人間が魅力的だろうか。

傷つきやすく不完全な人間に本物の人間らしさを感じます。誰かと寄り添って生きる、その無様さを受け入れることは、孤高を保って一人で生きるより本当はよっぽど強さを求められるのではないでしょうか。

そういった当たり前のようで難しい人間の営みを、なにより尊いものとして問い続けるのが本作の真髄でした。当たり前のことをただ説教くさく説き伏せるだけでは誰も耳を傾けませんが、五位検事が弥勒を諭すまでには長い物語と思考と感情が激しく渦巻いてます。だからこそ説得力があるのです。

私はこの漫画ほど知的で感情的な涙を流したことはありませんでした。

原作の「罪と罰」とはかけ離れた世界観と設定ですが、本質は捉えられていると思います。そして主人公の罪の意識、思想、自尊心などを巡らせながら、葛藤と成長を10巻で描き切ったのは見事です。

裁弥勒という人物

いかにも退廃した大学生の汚いワンルームの部屋が見開きで描かれており、これだけで現状の環境を語っているよう。

彼の人間性は実はかなり恵まれているのか、周囲の人間の多くが心配していることからもうかがえます。姉、被害者の女子高生、下宿先の娘、大学の友人、街で出会った女性など、みんな弥勒に好意を抱いていました。

それをプライドが邪魔してうまく付き合うことができていなかったのが、誇張して描かれていますがリアリティを感じるのでしょう。

このプライドの高さが仇となり、計画的事件で予定外の殺害を犯してしまいます。その際のリサ(被害者女子高生)を殺す心境が状況だけみれば飛躍が大きく、ここで主人公の気持ちが理解できるかどうかが肝要になっています。

作中で弥勒が冗舌になる唯一のシーンが、ファストフード店で警察巡査と話しているとき。弥勒は巡査を完全に見下しており、なんの気後れも感じていませんでした。このような細かい点でも人物の性格が表現されています。

そして作中後半。弥勒が理屈ではなく気持ちでものを語る場面が増え、その時は瞳にハイライトが入ります。明らかな顔つきの変化からも、弥勒というキャラクターが成長していることが読み取れます。

首藤という人物

弥勒の唯一の理解者であり、同類ともいえる人物が首藤でした。

首藤は欲望に忠実に自由に生きているようで、弱みを握られたある人物に縛られており、強者でもあり弱者でもありました。そして、それをすべて自覚しているから、どこか首藤の言葉には説得力があります。

弥勒は自分が強者側にいることを信じて疑わないところがあったので、二人が似ているようで首藤のほうが一歩先を行ってる印象が分かる点ですね。

生き物の世界に食物連鎖があるように――
人間の世界にも強者と弱者のヒエラルキーがある。
肉食獣が草食獣を糧として食らうことは天から与えられた権利だが――
また同時に使命でもある。
自然がそう命じるならば従う以外に道はないだろう?

首藤が歓楽街で弥勒に放った言葉、人間に興味のない人間が人間を描くことなんてできるはずがない、だから空っぽなんだと言い放っています。

「憎しみに任せて殺した。あれほど誰かを憎いと思ったことはない。」人を殺すのにこれほど正当な理由はないよ。これほど人間らしい動機はない。簡潔で美しい獣の論理だ。

事件を起こした弥勒を首藤が肯定した場面。


私はこの漫画をもう10回以上繰り返し読んでいますが、初めて読んだときは理解しきれていない部分がたくさんありました。少しずつ弥勒の心境が理解でき、五位検事の意図や説得を理解し、知的で哲学的なテーマにはまっていきました。

この世が地獄のような苦しみや泥濘にまみれていても、それでも生きるに値する美しい実感があることを教えてくれる作品です。

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