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【KAGEROU】文学賞で八百長!?疑惑の一冊

本屋でいわゆるパケ買いをすることがあるのですが、この本はまさしくそれでした。シンプルな白地にアクセントで光るメタリックブルーの十字ロゴと、内容を想像しにくいタイトル。

装丁デザインに惹かれて読んでみた本でしたが、これがまさか有名人の別名義で執筆された小説だとは思いませんでした。しかも巨額の賞金がでる文学賞を受賞したものの、八百長の疑惑が浮上して賞金を受け取らなかったとか。そんな話題性を持った一冊を知らぬうちに手に取っていたのだから、人を引き付ける何かがあるのは確かなのかもしれません。

つまり『命』とは大東さんの個性や人格、そして未来です。それらを奪った行為に対して求める補償金は本来ならばこの二千数百万という金額よりもずっと多くなければなりません。ところが大東さんは自らの手で自分の人格を捨て、未来を断ち切ろうとしました。そのまま自殺が遂行されていたら残るのはバラバラに砕け散った肉体だけです。つまり私たちが取り扱っているのは、その地面に激突する寸前の大東さんの命の抜け殻なのです。

KAGEROU 80p

俳優 水嶋ヒロの作家名義。著作はこのデビュー作のみとなっている。本作「KAGEROU」にて第5回ポプラ社小説大賞受賞。

ポプラ社2010/12/15

あらすじ

廃墟となったデパートの屋上遊園地から飛び降りようとしていたヤスオは、決断をする瞬間にある男に呼び止められます。

男は全日本ドナー・レシピエント協会、通称全ド協の京谷と名乗りました。全ド協は臓器提供者ドナーと臓器提供を受けるレシピエントの橋渡しを担う機関です。京谷はヤスオに自ら命を断つのなら、その命(肉体)に見合った金額を受け取ってから死んだほうがいいと提案しに来たのでした。

そして全ド協が提示する見積もり額はヤスオの借金500万を返済しても十分な遺産を残せるほどでした。

ヤスオはその提案を承諾し、精密な身体検査や既往歴などのもと、頭のてっぺんからつま先までの査定を完了させます。自らの肉体に金額をつけられると、嫌でも命の価値と平等さについて考えざるをえません。

ドナーは鮮度が大切なので、ヤスオの命は最適なレシピエントが見つかるまで全ド協の施設で管理されることになります。そこで過ごしているうちに、ヤスオはあるレシピエントの少女と出会い、生きることを再び考えさせられるのでした。

書評

ヤスオは自殺志願者のわりに性格は明るくふざけるタイプです。会話の中で度々寒いおやじギャグをはさんでくることもあります。命の価値や自殺をテーマに扱う本にしては、主人公が剽軽なキャラなので人によっては抵抗感がありそう。物語の重い雰囲気を和らげるバランス役ともとれますが、作風とキャラクターにギャップを感じるのは確かですね。

設定が絶妙に作りこまれているのが良かった点です。全ド協がありそうでないようなラインをせめていて、ドナー提供契約や金額面の折り合いについてなど、ヤスオが読者が疑問に思いそうな部分を積極的に質問しています。逆にファンタジーにならないように突っ込みどころをつぶそうとしている感もあって、どこか物語設定の説明的展開が目立つようにも思えました。

しかし「ありそうでないだろう」この絶妙なラインで全ド協の不穏な存在を定めていたのに、後半になると主人公が自らの心臓をハンドルでくるくる回しながら延命するシーンがあり、非現実的かつシュールな急展開に驚きました。

命の価値についてヤスオと京谷が議論している際に、そもそも命の価値をはかることの合理性のなさに言及されます。個性や人格、その人の未来まで含めて命です。だから協会はあくまでも肉体に対して価値をつけているので、自らの意志で未来を切り捨てたヤスオの命に対して論理的にはかれない人格や未来は含まれないのです。命が数百万~数千万というと安く感じるかもしれませんが、命の抜け殻としての肉体にその機能に見合った金額しかつかないのは納得できそうな理論ですね。

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【ジキルとハイド】二重人格の代名詞となった怪奇小説

人間に内在する善と悪の二面性を捉えた二重人格の代名詞となった名作。ジキル博士が純粋な悪に心を染めてハイドに成り変わること、その悪への誘惑に抗いきれなかった男の悲劇。

スティーブンソン

1883年に『宝島』1886年に『ジキルとハイド』を刊行。コナン・ドイル、プルースト、ヘミングウェイ、夏目漱石など同時期~後世に活躍した作家から高く評価された。

あらすじ

精悍な弁護士アタスンは友人から噂話をききました。ある小男と少女が十字路で鉢合わせてぶつかった際に、小男が少女を踏みつけてその場を去った事件。小男はすぐさま周囲の人に連れ戻されたが、示談金として100ポンドを支払ってことを済ませようとします。しかしその100ポンドの小切手がロンドンでも高名な人物ジキル博士の名で支払われたのが問題でした。

少女を踏みつけにした邪悪な小男はハイドと名乗ったが、高名なジキル博士といったいどんな関係があるのか。

アタスンはかねてよりジキル博士から遺言状を預かっており、博士が死んだら財産のすべてを友人のエドワード・ハイドに相続するという内容だったことを思い出します。

後日ジキル博士にハイドの件についてアタスンが尋ねるが、ジキルはその件について深くは触れずにかわされてしまいます。

またある日、街で国会議員がハイドに暴行を受け殺害される事件が発生。そのままハイドは一切姿をくらましてしまいました。

アタスンが再度ジキルのもとを訪ねて極悪人ハイドとの関係を断つように進言すると、ジキルはそれを聞き入れたものの外界との接触を拒んで家にこもる隠遁生活となります。その様子を見てアタスンはジキル博士に対してますます不安と心配を募らせました。

ハイドが完全に消息を絶ち、ジキルが隠遁生活を始めてしばらくたったころ。ジキル博士の屋敷の使用人が、博士の様子がおかしいと訪ねてきました。その夜、アタスンがジキル博士のもとへ行くと、すでに事件が起きており…。

ロンドンを震撼させた悪人ハイド、彼を相続人にしようとするジキル博士の謎、そしてジキル博士の重大な秘密を知って亡くなった人物。これらのすべてが繋がる最後の夜が始まります――。

書評

本編は140ページほどの中編小説、古い本にしては内容が褪せない設定で、登場人物も少ないので非常に読みやすい本でした。

弁護士であるアタスンの視点でミステリー調に進行していきます。ミステリーとはいえ読者視点では、はじめからジキルとハイドが同一人物であることが分かり切っているので、ジキルの内心を探りながら事件の全容を明らかにしていく過程に物語の面白さがあります。

事件の全容が明らかとなる最後の夜の後、ジキル博士が遺書として残した手記による告白という二部構成です。このジキル博士の告白は、たった140ページの短い物語の4分の1も占めており、ジキルの切迫した思いや葛藤が鮮明に描かれています。

彼の手記の中で最も印象的だったセリフに、その苦悩とこの物語の本質が凝縮されていました。

「人間が抱えるふたつの人格を分離して考えるのが愉しみだった。”悪”のほうは、清廉潔白な双子のかたわれの理想や呵責の念から解放され、堂々とわが道を突き進むことができるのではないか。”善”のほうは、すじちがいの”悪”がもたらす恥辱や後悔にさらされることなく、喜びの糧である善行を繰り返し、迷うことなく高潔の道を進むことができるのではないか。この相容れない二本の薪がひとつの束にくくりつけられていることこそ、人類の呪いなのではないか。」

114p ヘンリー・ジキルが語る事件の全容 ジキル博士の手記

ハイドは紛れもなく悪だが、ジキルはあくまでも理性をもって悪を抑制した善の仮面をかぶった普通の人間です。人間はこの善と悪の二面性を合わせ持ってその人格を形成していますが、これがどちらかに振り切れることはないために相反する性質が精神内においてストレスを生むのでしょう。それを科学の力で分断して純粋な悪になりきれる快感に酔いしれてしまったのが、天才であるジキル博士の悲劇でした。

ちなみにジキルとハイドにはモデルがあります。18世紀、高級家具職人組合長かつエディンバラ市議会議員でありながら、裏ではスリルを求めてギャンブルの種銭稼ぎに夜盗をはたらく『ウィリアム・ブロディ』です。彼は家具師として自身で初めてエディンバラに絞首台を作り、初めてその刑具の受刑者になった皮肉な話。この顛末までもが本作のジキルとハイドの最期に重なるところがあります。

ジキルとハイド

¥539

ジキルとハイド
ロバート・L・スティーヴンソン
田口俊樹(訳)

人間の心に潜む善と悪の葛藤を描き、二重人格の代名詞としても名高い怪奇小説。

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【人生・仕事の結果が変わる 考え方】数多くの功績を残した稲盛和夫の人生観とは

稲盛和夫の名言を抜粋して、それに細かい説明を肉付けしていくような構成の本でした。見開きに稲盛和夫の肖像写真と名言が挿入されています。

稲盛和夫

1932年、鹿児島県生まれ。鹿児島大学工学部卒業、59年京都セラミック株式会社(現・京セラ)を設立。社長、会長を経て97年名誉会長。84年に第二電電(現・KDDI)を設立し会長に、2001年最高顧問。2010年日本航空会長に就任し日本航空再建。同年に稲盛財団を設立し京都賞を創設。人類社会の進歩発展に功績のあった人々を顕彰している。若手経営者が集まる盛和塾の塾長として後進の育成にも心血を注ぐ。主な著書に「生き方」「働き方」「成功への情熱」「人生と経営」など。

概要

稲盛和夫の功績を振り返って、どんな境遇にあろうと「人間として正しいことを正しいままに貫く」を実践してきた『考え方』にせまる内容です。

本書から個人的に良かったセクションを抜粋して紹介します。

大きな志しを持つこと

自分の可能性をひたすら信じ、実現することのみを強く思いながら努力を続ければ、いかなる困難があっても必ず実現する。こうしたいと思っても実現するのは難しいと多くの人が後ろ向きに考えがちだが、一切の疑念を捨てて実現を信じること。これが自然と努力を引き出してくれます。

ビジネスの世界では挑戦的で独創的なことをしようとするときに必ず多くの障害が出てきます。これを克服するには一途な信念で乗り越えるしかありません。

1984年電気通信事業の自由化により国策会社の電電公社が民営化されNTTになり、通信事業への新規参入が認められました。しかし明治以来のNTTによる膨大な通信インフラに誰も太刀打ちできません。国内の長距離電話料金が世界的に見て高すぎるため、通話料金を安くする大義を掲げて不利な局面を駆け抜け、現在では市場をリードするKDDIとなりました。

誠実であること

常に正しい道を踏み誠を尽くして仕事をする。相手に迎合したり、うまく世渡りできるからといって妥協するような生き方をしてはなりません。

行き詰ると良心ではよくないとわかっていてもつい悪いことをしてしまいます。極端にいえば結果良ければすべてよしな思考に陥ります。そうして自分を納得させ悪に手を染める。どんなに難しい局面でも正道を貫く人間としての正しい姿勢は維持しないといけません。

不正や不真面目を嫌い、強い正義感を持っていた稲盛。最初の職場で開発に成功してから実質的に現場を仕切る立場にありました。戦後は業績が低迷して赤字が続き、労働争議が頻発して、待遇も悪いのでみんな一生懸命に働かず不要な残業代を稼ぐのが常態化していました。人件費が製品コストに跳ね返るので残業禁止にしても多くの不満を買うのは必至。「ここで苦労して低コストで製品を作れば、近い将来競争力がついて必ずいやというほど注文が来て残業することになる」と説得します。

管理職でもないのに経営者より厳しい要求だと労働組合で査問委員会にかけられつるし上げられた経験もありました。それでも敢然と会社の先行きを訴え正道を貫く反論で自分の正義を貫いたこと。正しいことをしていると信じていたし、同時になぜ正しいことをしてるのに理解してくれないのかと悩んで孤独を感じていました。稲盛が小川のほとりで泣いていると有名になった話です。

職場の人間関係に角が立たないように、世の中をうまく立ち回るために、自分の信念を曲げて周囲に迎合しない。嫌われても正しい主張は通さないといけない場面があります。

心が純粋であること

27歳で京セラを作って感謝を意識するようになった稲盛。経営経験もないのに、会社を設立してくれた人々にこたえるべく昼夜兼行で仕事に励み、困難な要求は自分をのばしてくれる機会としてポジティブに受け取りました。無理にでもありがたいと感謝の心を持つくらいがちょうどよい。

できるだけ欲を離れて三毒(欲望・愚痴・怒り)を完全に消せなくとも抑制するように努めました。いかに恵まれていようとも際限なく欲をかけば不足を感じ、不満でいっぱいで幸せを感じられません。幸せかどうかは人の心の状態によって決まるもので、条件を満たして得るものではありません。足るを知り、自らの心を作っていくことこそが、幸せを感じるために大切なことです。

世のため、人のために行動する

利他は社会をよりよい方向に導く心。犠牲を払ってでも世のため人のために尽くすことは、実は自分自身の人生も好転させます。一見回り道のように思えますが、情けは人のためならずといわれるように、巡り巡って自分に返ってくるもの。

見返りを求めるという話ではなく、相手の役に立った喜びそのものが、自身の誇りになるという話です。

書評

稲盛和夫という松下幸之助に並ぶ経営の神様による言葉の数々。その功績と人格からこれ以上ない説得力を含んだ一冊です。

特筆すべき点は、人間の「心」や「正しさ」に訴えかける内容が多く、経営者のみならずすべての人に通ずる誠の言葉にあふれています。難しいことは一つもないのだけど、いざ改めて考えてみると自身を見直さなければいけないことに気づかされます。

善い考え方が人を育み、周囲を奮い立たせ、社会に影響を及ぼす。そんな原点に立ち返るための「考え方」を問われているようです。

考え方

¥1,870

考え方 人生・仕事の結果が変わる
稲盛和夫

これから就職を目指す人、社会に出る人から経営者まで、人生の目的に迷うとき、生き方に悩むとき、心が晴れないとき、支えになってくれる一冊!

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【罪と罰】世界的文学を日本社会に置き換えた名作漫画

文豪ドストエフスキーの「罪と罰」を、19世紀ロシアから21世紀日本に移し替えて改竄された物語。個人的にとても好きな漫画の一つです。

原作主人公ラスコーリニコフの「小さな罪悪は多くの善行によって購われる」という犯罪理論を周到していますが、その根幹を据えながら設定や物語はガラッと変わっています。

学校も仕事も行かず、人を遠ざけ部屋に籠って無益な空想に耽って、プライドが高くそれゆえに孤独な青年。頭が良くて理屈はこねるけど、人として愚かな、地に足のついていない知識人です。答えの出ない堂々巡りの考えに取り憑かれていつしか現実を見失う。

このような人はラスコーリニコフが時代を先取りしたのではなく、いつどんな時代にもあった普遍的な若者の悩みの一つなのかもしれません。

落合尚之

代表作「黒い羊は迷わない」

あらすじ

裁弥勒(たちみろく)は大学にも行かず退廃的な生活を送っています。家族の期待に応えて公務員になるか、自分の好きに生きて作家を目指すかのジレンマに苦しみながら。なんにせよ、とにかくいま必要なのはまとまった金です。

ある日、身売りしてる女子高生リサと援交少女たちを斡旋するリーダーに出会い弥勒の生活は一転します。その売春斡旋業者が売上をヤクザに上納するタイミングを偶然つかんだ弥勒は、その売上金を強奪する計画を立てます。しかし計画実行の際に想定外のアクシデントが発生して、予定外の人物まで殺害してしまいました。

計画通りに大金を手にして証拠を残さずに現場を去りましたが、崇高な目的のために許されたはずの流血は早くも弥勒の精神を蝕んでいきます。

事件はすぐに世間で明るみになり「青戸女子高生二人殺人事件」として特別捜査本部が発足。後日すぐに警察から連絡がかかってきましたが、事件とは無関係の盗難届を出していた自転車の引き取り依頼でした。しかし警察署で動揺を隠せなかった弥勒はひとりの検事に目を付けられます。

事件発生から6日、警察の捜査は続いていましたが検問等の警戒活動は縮小していきました。その中で警察署の五位検事は、弥勒が自転車を取りにきたときから目をつけており、弥勒を任意の捜査協力で呼び立てます。五位検事は文学好きで、弥勒が文学誌で佳作を受賞した「収穫者の資格」を知っていました。とくに注目していた、殺人者が語る殺人哲学「資格を持つ者には手段として殺しも許される」について論じ合います。

そこで五位検事はある鋭い質問を投げかけます。君自身が非凡人でその資格というのをを持っているのか。弥勒は実際のところ分からないがそうありたいとは願うと答えます。そこで検事は追い打ちの質問「では今回の事件の女子高生殺しの犯人が資格を持った非凡人だったか」と尋ねる。

殺人者である弥勒はこの質問には答えられません。殺人者を認めれば自首するようなもの、否定すれば自らのプライドを傷つけて作品を否定することになります。犯人しか知り得ない「崇高な目的達成の資格」は喋ることができないからです。

五位検事が弥勒を窮地に追い込んだところで、速報で事件が180度転回。なんと事件の犯人が自首して逮捕されたという報道でした。これも弥勒の計画の事件を撹乱するために打っておいた布石で、スケープゴートとなる人物が逮捕されたのです。

この時に弥勒の表情を読み取った五位検事は、事件の真犯人が弥勒であることを確信するが、事件を早々に収束させたい警察組織は五位検事を担当から外して、さらに複雑な展開へと持ち込まれていきます。

書評

立派な人間とは。品行方正で人に優しく、公正で公平、思慮深く聡明で間違いを犯さない。でも果たしてそんな人間が魅力的でしょうか。

傷つきやすく不完全な人間に本物の人間らしさを感じます。誰かと寄り添って生きる、その無様さを受け入れることは、孤高を保って一人で生きるより本当はよほど強さを求められるのではないでしょうか。

そういった当たり前のようで難しい人間の営みを、なにより尊いものとして問い続けるのが本作の真髄でした。当たり前のことをただ説教くさく説き伏せるだけでは誰も耳を傾けませんが、五位検事が弥勒を諭すまでには長い物語と思考と感情が激しく渦巻いてます。だからこそ説得力があるのです。

私はこの漫画ほど知的で感情的な涙を流したことはありませんでした。

原作の「罪と罰」とはかけ離れた世界観と設定ですが、本質は捉えられていると思います。そして主人公の罪の意識、思想、自尊心などを巡らせながら、葛藤と成長を10巻で描き切ったのは見事です。

裁弥勒という人物

いかにも退廃した大学生の汚いワンルームの部屋が見開きで描かれており、これだけで現状の環境を語っているよう。

彼の人間性は実はかなり恵まれているのか、周囲の人間の多くが心配していることからもうかがえます。姉、被害者の女子高生、下宿先の娘、大学の友人、街で出会った女性など、みんな弥勒に好意を抱いていました。

それをプライドが邪魔してうまく付き合うことができていなかったのが誇張して描かれていますが、かえってリアリティを感じるのでしょう。このプライドの高さが仇となり、計画的事件で予定外の殺害を犯してしまいます。その際の被害者女子高生を殺す心境が状況だけみれば飛躍が大きく、ここで主人公の気持ちが理解できるかどうかが肝要になっています。

作中で弥勒が冗舌になる唯一のシーンが、ファストフード店で警察巡査と話しているとき。弥勒は巡査を完全に見下しており、なんの気後れも感じていませんでした。このような細かい点でも人物の性格が表現されています。

そして作中後半。弥勒が理屈ではなく気持ちでものを語る場面が増え、その時は瞳にハイライトが入ります。明らかな顔つきの変化からも、弥勒というキャラクターが成長していることが読み取れました。

首藤という人物

弥勒がインターンで訪れた会社の嘱託社員。弥勒の唯一の理解者であり、同類ともいえる人物が首藤でした。

首藤は欲望に忠実に自由に生きているようで、弱みを握られたある人物に縛られており、強者でもあり弱者でもありました。そして、それをすべて自覚しているから、どこか首藤の言葉には説得力があります。

弥勒は自分が強者側にいることを信じて疑わないところがあったので、二人が似ているようで首藤のほうが一歩先を行ってる印象が分かる点ですね。

生き物の世界に食物連鎖があるように――
人間の世界にも強者と弱者のヒエラルキーがある。
肉食獣が草食獣を糧として食らうことは天から与えられた権利だが――
また同時に使命でもある。
自然がそう命じるならば従う以外に道はないだろう?

首藤が歓楽街で弥勒に放った言葉、人間に興味のない人間が人間を描くことなんてできるはずがない、だから空っぽなんだと言い放っています。

「憎しみに任せて殺した。あれほど誰かを憎いと思ったことはない。」人を殺すのにこれほど正当な理由はないよ。これほど人間らしい動機はない。簡潔で美しい獣の論理だ。

事件を起こした弥勒を首藤が肯定した場面。


私はこの漫画をもう10回以上繰り返し読んでいますが、初めて読んだときは理解しきれない部分がたくさんありました。少しずつ弥勒の心境が理解でき、五位検事の意図や説得を理解し、知的で哲学的なテーマにはまっていきました。

この世が地獄のような苦しみや泥濘にまみれていても、それでも生きるに値する美しい実感があることを教えてくれる作品です。

罪と罰 A Falsified Romance

¥1,184

罪と罰 A Falsified Romance
落合尚之

文豪ドストエフスキー「罪と罰」を現代日本を舞台に、全10巻コミカライズ版。

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【教養としてのブランド牛】牛肉の基礎知識とブランド和牛の成り立ちが分かる

20歳前後くらいのころに北海道の牧場で働いたことがあります。酪農でしたので主に乳牛の飼養管理と搾乳が仕事。

牛乳や牛のことについての基本的な知識はあっても、肉用の牛となるとまた話は別です。牛肉の基礎知識を備えておきたかったので、こちらの新書を読みました。

石原善和

黒毛和牛ブランド「石原牛」生産者、株式会社マル善代表取締役。高校卒業後、超高級和牛「村沢牛」を肥育する村沢牧場で村澤勲氏に師事。2009年に株式会社マル善設立、2017年に1500頭規模へ拡大し、2020年ブランド牛「石原牛」の出荷を開始。2021年「焼肉処石原牛」を福岡でオープン。

概要

日本のブランド牛のルーツから地域ごとの特徴、海外で愛される理由、海外の牛肉との違い、日本独自の肥育方法、等級の評価基準などブランド牛にまつわる知識が得られる一冊。

牛肉の基礎知識と昨今の和牛ブームについて知ることができます。

ブランド牛誕生と発展の歴史

世界の人をも魅了する日本独自のブランド牛、明治以降に改良が重ねられ1944年に和牛の認定が確立。

もともと在来牛は役牛として耕作や運搬などに使役されており、江戸時代までは殺生を禁じる仏教の影響や農業の貴重な労働資源といった考えから肉食は忌避されていました。

しかし滋養強壮として食されてもいて、隠語に馬肉のさくら、鹿肉のもみじ、猪肉のぼたんなどがあります。明治以降文明開化によって肉用牛の改良が奨励されるようになりました。よって和牛の歴史は意外と浅く、その割に急速に発展をとげた産業領域といえます。

著しい和牛改良の伝説スーパー種雄牛が「田尻号(1939~1954)」です。産子数1500頭近く、全体の20%の170頭が種雄牛となり、日本の和牛改良に多大な貢献をしました。2012年全国和牛登録協会の調べによると、全国の黒毛和牛の繁殖雌牛の99.9%が田尻号の子孫であることが証明されています。

300を超えるブランド牛の特徴

食肉通信社 銘柄牛肉ハンドブックによると300種以上、すべて網羅しているわけではないので実際はもっと多くのブランド牛があります。

和牛と表示できるのは黒毛和種、褐毛和種、無角和種、日本短角種とこの4種間交雑種のみ。一方で国産牛に分類されるのは乳用種(主にホルスタイン)や、F1という乳用種と和牛を交配させた交雑種。

4品種あるがその98%が黒毛和種。黒毛和種はサシ(脂肪交雑)が入りやすいからです。つまり和牛=ほぼ黒毛和種といっていい。ちなみにブランド牛=すべて和牛とは限りません。

国産牛は和牛より安価で、肉専用種より早く大きく育つと言ったメリットがありまます。また肥育コストが抑えられて安く、特にF1は肉質も高く和牛に負けず劣らず。

去勢牛は品質が安定しやく枝肉重量も期待でき、一方で雌牛は肉質のきめが細かく味が良いが神経質で肥育難易度が高く品質にバラツキが出やすいといった特徴があります。肥育期間(一般的に月齢8~10か月の子牛を20か月前後肥育)をより長くしたり、与える飼料をこだわったりして地域性や特別性を打ち出します。さらに個体差という生物ならではの特性も加味されます。

日本三大和牛は神戸牛(兵庫)、松阪牛(三重)、近江牛(滋賀)、米沢牛(山口)です。近江と米沢は同列です。これらは世に名前が知られてからの長い歴史があり、300以上のブランド牛の中でも群を抜いています。

例えば神戸牛なら兵庫県産但馬牛の未経産雌牛と去勢牛で、格付け等級がA・B、4等級以上、BMS6以上など、神戸肉流通推進協議会によるブランド定義と基準が設けられています。

知られざるブランド牛の肥育方法

著者の経営や肥育方法などの経験を交えた肥育農家のこだわりが記されています。

濃厚飼料(穀物)と粗飼料(牧草)の割合、成長度合いによる調整、飼料の配合を栄養面や使い勝手から考えること。濃厚飼料は霜降りに欠かせませんが、使うほど生産コストも上がります。生き物である以上個体差はあり、ただ飼料を与えて育つものでもありません。

牛肉は豚や鶏に比べて増体するための生産コストが高く、出荷月齢も長いため肥育コストがかさみ、繁殖は1頭あたり1頭なので20頭産む豚や200以上の卵を産む鶏とは比較になりません。

設備やノウハウ、コスト面から繁殖農家と肥育農家という分業体制がありますが、繁殖から肥育まで一貫して行う一貫農家もあります。

著者は独自の経営手法を一部公開しています。市場で2番手3番手の子牛を仕入れて最高ランクに育ててコストを抑えること、血統だけでなく実際に市場で素質を見極めること。また肥育初期でしっかり腹づくりして、長期的によく食べる牛にすることを心掛けています。このように牛は手をかけるほど応えてくれる、そんな手ごたえが先人の改良を推し進めた魅力の一つかもしれません。

牛肉のランク(等級)の意味を理解し好みの味と出会う

まず等級のABCは量の判定で味に関係ありません。歩留等級と肉質等級は枝肉の第6~第7肋骨間ロース芯の切断面で判定します。部分肉歩留が標準ならB、それより良いならA、それより劣るならCです。もっというと枝肉から骨などを取り除いた大きな肉の塊、部分肉といい、さらに余計な脂やスジを取り除いたものが精肉です。枝肉の70%前後が部分肉、部分肉の80%前後が精肉になります。Aなら72%以上、Bは69~72%未満、Cは69未満です。仮に枝肉500㎏なら、部分肉は350㎏前後、精肉は280㎏前後の計算になります。つまり食肉として利用できる割合が多いかどうかの評価となっています。しかし一般的に和牛でBやCになるケースは少数で、9割はAランクになります。

肉質等級は「脂肪交雑」「肉の色沢」「肉の締まり及びきめ」「脂肪の色沢と質」の4項目それぞれ5~1段階で評価して、その中の最低ランクがついた項目に準じて肉質等級が決定します。つまり5等級はオール5でないとつかない評価であり、一つでも低い評価項目があるとそれに引っ張られて全体の肉質等級が低くなります。このことから、肉質等級も見た目を判断しており味自体は評価していないことが分かるでしょう。格付けは試食ではなく見た目の評価でしかないのでA5が美味しい肉とされてるわけではありません。とはいえその評価が味に比例してるのもほぼ事実なので、評価の高いものが美味しい可能性は高い。

肉質等級にはさらに脂肪交雑の評価に特化したB.M.S.(ビーフマーブリングスタンダード)が定められており、12段階で5等級はNo8~No12に該当。しかしこのNo8とNo12では相当な違いがあるので、同じ5等級でも脂肪交雑の差が大きいことがわかります。

さらなる差別化のポイントとして脂の質の向上、不飽和脂肪酸の含有量が注目されていまする。脂が溶け出す温度の融点が下がり口どけの良い、しつこくない脂になどが好まれるようです。

ブランド牛を堪能するには部位ごとの特徴も欠かせません。地域によって分割方法や呼び名が異なるが、公益社団法人日本食肉格付協会が定める部位の規格では13部位あります。

ネック、肩、肩ロース、リブロース、サーロイン、ひれ、肩バラ、ともばら、ランイチ、ウチモモ、しんたま、そともも、すね

ちなみに焼肉店のカルビという部位はなく、ロースは複数部位の総称です。焼肉のルーツは朝鮮料理でカルビは韓国語であばらを意味し、つまりバラ骨周辺の肉を指していて、肩バラやトモバラにあたります。さらに解釈が広がってバラ系の部位は脂肪が多いので、サシが多い肉=カルビとして提供する店もあります。よってカタロース、リブロース、サーロインなどが特上カルビとして提供されたりもしているようです。一方でロースはカルビと対照的に赤身が多い肉と解釈されています。焼肉店では13部位をさらに小分割してミスジ、ザブトン、シャトーブリアンなど呼称しています。

なぜ日本のブランド牛は世界を魅了するのか?

和牛は世界的にも個性が際立っていて、いうまでもなく霜降りが世界の牛肉の中では稀有なもの。日本独自の改良と肥育技術によって発展してきました。

ではなぜ海外で評価を得てるのに、日本でばかり注目されるのか。一つは黒毛和種が日本固有の品種だから、そして食文化の違いも影響しています。欧米人の食べるステーキの量や頻度では、脂肪が多いと飽きるし日常食品に適していません。逆に日本ではステーキが特別視されるもので、ボリュームよりもご馳走的な味わいを求めて霜降りになったと推察されます。

世界市場でのライバルは海外産WAGYUです。日本での和牛の精液や受精卵はどの国にも輸出してはいけないことになってますが、1970年~1990年にかけて和牛の遺伝子源がオーストラリアやアメリカに持ち込まれた事により、海外でWAGYUが生産されるようになりました。日本独自の和牛改良や肥育技術は簡単に真似できるものではなく、品質が高いものを維持しているが、今後も和牛が世界で通用する産物となるためにブランド力向上などに力を入れる必要があります。

書評

牛のこと、牛肉のこと、等級や牛の呼称など基本的な知識は広く解説されています。

その上で著者の自伝的な側面も交えながら、ブランド牛の成り立ちや肥育技術などちょっと踏み込んだ話まで展開されています。著者が石原牛というブランド牛を保有していることもあって、本書からのPRを感じなくもないですが、牛のプロとしての内容は参考になって説得力もあります。

日本の和牛が世界的に見ても優れた技術と品質を有しており、それを誇りに思っているのが随所に表れていました。そのブランド力を維持していくことも農家の務めであり、我々消費者にも知っておくだけで意味があると訴えかけています。

私のような庶民には和牛なんてそう口にすることはありませんが、いざ何かのご馳走や、ふるさと納税の返礼品選びなどに、最低限の知識があるだけでも選択の幅が広がりそうです。

教養としてのブランド牛

¥990

教養としてのブランド牛
石原善和

35年以上にわたって和牛の肥育を生業とし、自らもブランド牛を立ち上げた著者が、生産者ならではの目線も盛り込みながら、
ブランド牛にまつわる知識と魅力を幅広く語っています。より深くブランド牛を味わい尽くすための、「教養としてのブランド牛」を楽しめる一冊。

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【茶色の朝】政治に丸め込まれるな、考え続けろ

政府(茶色党)によるペット特別措置法で飼っているペットの色を茶色に統一された世界。法律は拡大解釈され、後に動物全体、服や法律などの文化、新聞やラジオなどメディア、言葉や思想、なにもかも茶色に染まっていき、全体主義が静かにせまってくるディストピア物語となっています。

全体主義とは個人の自由や利益を社会全体の利害と一致するよう統制された思想のこと。具体的にはソ連、毛沢東の中国、ナチスのドイツなど。国や政治家にとっては政策を滞りなく強制的に押し進められるメリットがありますが、国の権力が強すぎるあまり個人の権利が軽視されます。警察が力を強めて、人々が互いに反国的な者がいないか牽制し合って、社会全体が疑心暗鬼な監視社会のようになっていきます。

無知や無関心がいかに罪であるか、どれだけ恐ろしい社会を生み出してしまうのか、そういった歴史を顧みた小さな物語です。

自分自身の驚きや疑問や違和感を大事にし、なぜそのように思うのか、その思いにはどんな根拠があるのか、等々を考えつづけることが必要なのです。

高橋哲也 “考えつづけること”
フランク・パヴロフ

多くの若者に読んでもらいたかったため、本国のフランスでは印税を放棄しわずか1ユーロの定価で出版した。

あらすじ

“俺”と友人シャルリーの日常が静かに淡々と茶色に蝕まれていく様子が描かれます。

シャルリーは飼っている犬を安楽死させなければいけません。ペット特別措置法によって茶色以外のペットは飼ってはいけないからです。

始まりは増えすぎた猫を規制するための法律でした。茶色を残す理由は「子供を産み過ぎず、えさも少なく済み、都市生活に適している」と国の科学者が主張するから。配布された毒入り団子で茶色以外の猫や犬は処理されました。

一時は胸が痛むが、国が決めたことだし感傷的になっても仕方ない、時間がたてば忘れるでしょう。

しばらくして『街の日常』という新聞が廃刊になります。ペット特別措置法に対する批判的な記事を書いていたから。新聞を読みたかったら『茶色新報』しかない。『街の日常』の廃刊をきっかけにその系列出版社がつぎつぎと裁判にかけられ、図書館や本屋の棚から多くの本が消え、メディアも茶色に染まっていきました。

ある日茶色い猫を飼い始めた俺は、シャルリーを家に招いたところ、彼も新しい茶色い犬を飼い始めていました。馬鹿げた法律も受け入れてしまえば簡単なことで、従っていれば面倒もないし安心です。

しかし信じられないことが起こる。茶色い制服に身をつつんだ自警団が家のドアを破ってシャルリーを逮捕した。以前茶色じゃない犬を飼っていたから。

そうしてすべては茶色に染まっていき、ついに朝までも茶色になりました。

書評

本の構成はたった14ページの物語と、巻末に東大名誉教授のメッセージと称した解説が載っています。実質この解説のほうがメインとなっていて、ここで作者が伝えたかったことをすべて分かりやすくまとめてくれていました。

出版当時のフランスでは、全体主義に対する危機感をより多くの、とくに若者に知ってもらうために印税を放棄して1ユーロで発売されていました。だいたい100円くらい。

日本での定価は1,000円で、ボリュームのわりにまあまあな値段に感じるかもしれません。ですが製本のクオリティは高い気がしますし、それだけ考えさせられる重要なメッセージが凝縮されている本です。

ヴィンセント・ギャロのイラストは、表紙のほかに本編中に多く挿入されています。私は絵に疎いので本の内容との関連性や、描き下ろされたイラストの芸術的価値は分かりませんが、少し怖い印象を受ける絵だと思いました。物語に合わせて、ギャロの絵が全体主義の静かに迫ってくる不穏な空気間を表現しているかのようです。

主人公の俺は新しい法律に違和感や、妙な感じ、言い足りないこと、すっきりしない、そういったもやもやを常に抱えていました。心の奥では明らかに世の中が良くない方向に行こうとしてるのを察知しているのに、それをあらゆる言い訳や権力への従属姿勢において諦めていく姿が描かれています。

全体主義に対する警鐘を鳴らす本だが、声高に糾弾するのではなく、俺とシャルリーの日常が静かに蝕まれていく恐ろしさを淡々とした筆致で綴っています。法律が次々に課されても直ちに日常をおびやかすものでもない、その法律に従っていればとりあえずは安全だからと茶色の支配に取り込まれていくわけです。

「ファシズムや全体主義は権力者による一方的な恐怖政治をしくことで成立するだけではなく、民主主義のもとに多くの人がそうした萌芽を見過ごしたり、気づきながらも様々な理由から目をそらす」

人は自分自身が直接深刻な被害に遭わない限り、いつも事なかれ主義でやり過ごそうとします。ここに俺とシャルリーに対する怠慢、自己保身などといった全体主義を生み出す要因をあぶり出しているのでしょう。実際に”俺”は思考停止に陥って最後まで何も行動を起こすことはありませんでした。

つまり我々が政治に無関心であり続けることこそ、社会をより悪い方向にもっていく一手を担ってしまっている可能性があるわけで、国民すべての人に関係がある話です。

日本もこういった茶色に染まっていく兆候はいくつもあるわけで、決して他人事のような話ではないですね。すでに大きな間違いを犯す萌芽を、私たちは見過ごしてしまっているのかもしれません。

茶色の朝

¥1,100

茶色の朝
フランク・パヴロフ (著)
ヴィンセント・ギャロ (絵)
藤本一勇 (訳)
高橋哲哉 (著)

仏ベストセラー・反ファシズムの寓話。日本オリジナル編集版の絵とメッセージにも小学生から90歳代まで世代を超えた共感が集まる。

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【ボッコちゃん】どんなに読書が苦手でもショートショートなら読めるでしょ!

星新一ショートショートのシリーズ作第1冊め。芸人のカズレーザーが帯になっていたのをきっかけに、なんとなく読み始めました。

ショートショートというジャンルを開拓され、これが非常に読みやすく、なんとミリオンセラー文庫が18点もあるようです。普段本を読まない人でも気軽ん手に取りやすいかと思います。

星新一

1926年9月6日、東京生まれ。本名は星親一。1957年にSF「セキストラ」でデビュー。 短編よりさらに短いショートショートを得意とし、代表作に「ボッコちゃん」「おーい でてこーい」「処刑」「午後の恐竜」など。日本SF作家クラブ初代会長に就任。1983年にショートショート1001編を達成。

あらすじ

本書では50本のショートショートが収録されていますが、その中から表題作「ボッコちゃん」を取り上げます。

バーのマスターが趣味で作った美しいロボット「ボッコちゃん」

見た目は人間そっくりだが、できるのは簡単な受け答えと、酒を飲む動作だけ。客は新しい女の子が入ったと思うが、まともな話し相手にはなりません。

ロボットなのでお酒はいくらでも飲めます。注文はたくさんいれてもらえるし、さらにロボットのタンクから回収したお酒を提供して再利用できるからマスターにとっては良い商売です。

しかしボッコちゃんに本気で熱をあげる青年があらわれ、彼がお店で問題を起こします――。

書評

この本はだいたい1編あたり5~6ページ程度の物語が50編収録されています。本1冊あたりでは300ページを超えるものの、短く区切りがつくのでどんなに集中力がなくても読み進められるでしょう。

表題作のボッコちゃんは、たった6ページの中に流れるような展開と綺麗な落ちをつけています。話を短くまとめるためにも無駄がなく、非常に洗練された印象を受けました。星新一の1000を超える作品の中でも代表的なものであることも頷けます。

50編どの話もユーモアや風刺のきいた、たった数ページのショートショートとは思えない読みごたえがあります。ミステリー、寓話、SF、ファンタジー、童話などバラエティにも富んでいて、飽きることなくサクサクと最後まで読み切れるでしょう。

ボッコちゃん

¥781

ボッコちゃん
星新一

著者が傑作50編を自選。SF作家・星新一のシリーズ第1作。

 

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【ヴェニスの商人】友人に1億貸して死にかけた男の人肉裁判大逆転劇

シェイクスピアの喜劇のひとつ「ヴェニスの商人」を読みました。とくに四大悲劇が有名とされており「リア王」や「ハムレット」は読んだことありましたが、喜劇を読むのは初めてです。

ウィリアム・シェイクスピア

イングランドの劇作家・詩人。生涯を通して37編の史劇、喜劇、悲劇を創作。47歳で引退して余生を過ごした。

あらすじ

舞台は水の都イタリアのヴェニス(ヴェネツィア)と、ベルモント(架空の都市)における貿易商と金貸業の2人を巡る物語。

話の大筋は主に4つです。

  • 人肉裁判
  • 金銀鉛の箱選び
  • ジェシカの駆け落ち
  • 指輪の紛失

バサーニオーはベルモントの貴婦人ポーシャに求婚するため、各国の王様にも対抗できるだけの財産が必要でした。

貿易商のアントーニオーは親友であるバサーニオーから、その求婚のためのお金を貸してほしいと頼まれるが、彼の財産のほとんどは航海中の船にあって貸せるだけの金はありません。親友の頼みとあらば、強欲で高利貸しといわれるユダヤ人、シャイロックに頼るほかありませんでした。

シャイロックがアントーニオーに提示した条件は、3000ダカットを期間3か月で返せなかった場合、体の肉を1ポンド切り取るというもの。実質命と引き換えの契約ですが、アントーニオーは2か月のうちには船が戻り借りた金の9倍はあると見立てていたので承諾します。

一方でバサーニオーはアントーニオーが工面してくれた大金で求婚前にみんなでパーティーを決行。その後、グラシャーノーと共にポーシャのいるベルモントへと向かいます。

ベルモントの貴婦人ポーシャは亡き父の遺志に沿って夫を選びます。それは求婚者に金、銀、鉛の3つの箱から1つ正解を選んでもらうもので、ポーシャの意思によって好きな人を選ぶことも、嫌いな人を断ることもできません。逆に求婚者は箱選びに挑戦したら将来どんな女にも求婚しないこと、選んだ箱は他言無用で間違ったら黙ってただちに引き上げることが条件です。

シャイロックの娘ジェシカは恋人と駆け落ちするべく、バサーニオーのパーティーに乗じて家の財産を持ち出していました。シャイロックは娘を必死に探し回り躍起になっており、その上アントーニオーの商船が難破した噂を聞きつけます。多くの財産を失ってしまう危機だが、シャイロックにとっては金が返ってこなくても、商売の邪魔になるアントーニオーの命さえなくなれば儲けもの。

ヴェニスの大商人ともいわれたアントーニオーは友人のためにここで死ぬことを覚悟していたが裁判は意外な方向へ――。

書評

シェイクスピアのような古典的な作品となると、なんとなく敬遠してしまいそうになりますが、この戯曲はとても読みやすいです。そもそも戯曲は人物のセリフだけで構成され、一部傍白で語られるので、シンプルで読みやすくなります。

しかし古い作品なので、時代背景や設定を知っておいたほうがより理解も深まるでしょう。まずこの当時におけるユダヤ人の立場を明確にします。

作中舞台はイタリアですがシェイクスピアはイギリスの作家です。イギリスではユダヤ人は排斥対象とされており、実はシェイクスピア自身もユダヤ人を知らずにイメージだけでここまでのユダヤ排斥を作品に落とし込んだのではと言われています。

キリスト教では利子をとることがよくないこととされており、そのために金貸業で栄えたユダヤ人はイギリス人の反感を買い、迫害された後に国から追放され、イギリスからユダヤ人が姿を消す数百年の空白期間がありました。ただしユダヤ人は進んで金貸業を選んでいたのではなく、仕事がそれしかなかったという状況からの結果です。

つまり作中のキリスト教徒であるアントーニオーにとってシャイロックは忌避すべき対象で、シャイロックにとってはキリスト教徒であり商売の邪魔をしてくるアントーニオーは目の敵だったわけです。アントーニオーはシャイロックが誰かに金を貸すときに、自ら無利子で貸して教義に基づいてシャイロックの邪魔をしてました。このようなヴェニス全体の利息を下げるような行為がシャイロックにとっては許せず、これならば証文の額面を返済されるよりもアントーニオーがいなくなるほうが得だと考えていました。

ユダヤ人のシャイロックを最終的に追い詰めていくことから、作品全体を通して非常に反ユダヤ的であるとして裁判になったこともあるようです。また舞台上演では喜劇ではなく、シャイロックの立場を引き合いに悲劇として上演されることもしばしば。

ただしこの作品がユダヤ人を不当に扱いたかった意図はないと思われ、シャイロックがユダヤ人の怒りや憎しみを代弁してまくしたてる重要な場面も見られます。

ヴェニスの商人

¥528

ヴェニスの商人
ウィリアム・シェイクスピア
福田恆存(訳)

サスペンスとアイロニーに溢れる、圧巻の法廷シーン。時代を越えた傑作喜劇。

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【羆撃ち】羆を一撃で仕留める北海道の伝説のプロハンター

北海道に住んでいたころに知人にすすめられた本で、5~6年ずっと積読にしたままでしたがようやく読むことができました。

読んだことがある人はみんな「読んでよかった、おもしろかった」と言っており、私も同様にとてもおすすめできる一冊だと思います。

この本は著者の久保さんがプロのハンターを目指してから夢を叶え、現在の標津町に安住するまでの自伝的小説です。

久保俊治

1947年小樽に生まれ、20代よりプロのハンターとして単独猟を生業に。本場アメリカのプロハンター養成学校をトップの成績で卒業。現在は北海道標津町で牧場経営をしながら狩猟をしている。

あらすじ

ハンターとして生きていく覚悟を決めた男のサバイバルにかける哲学と、狩猟の相棒アイヌ犬”フチ”との絆の物語。

哲学というと固いものに思われますが、いわば久保さんの狩猟に対する思いの変遷を辿ったエッセイ調の自伝です。久保さんはすでに日本の狩猟業界では知らぬ人がいないであろう伝説のハンターとなっています。それは彼の獲物に対する誠実さと、ハンターとしての矜持が備わっているからでしょう。

旨い。手負いで苦しんだり興奮して死んだ獲物に比べて、苦痛や恐怖をほとんど感じることなく斃された動物の肉はこれほどに旨いものなのか。

二章 “闇からの気配”

小樽からプロハンターへ

幼少期、父が趣味で日曜ハンターを始めたため、山や渓流でサバイバル生活を経験。父は子供ひとりでできることには決して手を貸さずに見守り、山の中で安全に関わることなどは必ず気にかけて手を差し伸べる人。これが久保さんの自立心を育て、一人前に生きる自信を与えてくれました。

大学進学して20歳になると早速銃の所持許可をとり父から村田銃(ライフル)を譲り受けます。
※当時は現在のように射撃試験がなく、ライフルをもつのに散弾銃の所持歴10年以上という縛りもありません。

大学卒業を控えるころには就職せず猟で生活していくことを決めていました。

標津町で猟犬をパートナーに

牛が羆に襲われる被害が多発していた標津町に向かいますが、後に小樽から標津町に移住して標津の山をホームグラウンドにします。

警察や役場の職員、ハンターなどが大勢集まり、20人ほどのハンターと地元の人で巻狩を決行して牛舎を襲った羆を仕留めます。1週間後に同様の被害が報告され再度巻狩りを行うが、この日に仕留められた羆は未熟なハンターに何度も弾を撃ち込まれて、何の尊厳もなくなぶり殺しにされ哀れに思います。このときに久保さんは自分は人と組んで猟はできない、単独猟だけに生きるのを決意しました。

自分でも納得のいく羆撃ちができるようになったころ、次なる目標として羆猟に対する自分の技と精神をすべて注ぎ込める猟犬を育成します。猟犬はどんなに素質が良くても、それを使うものの技量以上には絶対に育ちません。

各地の繁殖家を訪ねて、野生の血を多く残したアイヌ犬をいくつかの血統から吟味します。また猟では一般的に体が大きく勇敢な牡が好まれるが、久保さんはあえて一回り小さい牝を探しました。気分にむらがなく、粘り強い性格に、俊敏な動きを期待できるからです。

生後2か月千歳系のアイヌ犬の牝を引き取って”フチ”と名付けます。躾の覚えがよく、性格も良い、最高の羆猟犬になる期待がもてます。
※アイヌ語で火の女神を意味する「アペ・フチ・カムイ」から。この本の表紙にもイラストになっています。

ハンターの本場アメリカで挑戦

裕福な暮らしとは言えないが猟で食っていける、自然の中で理想の生活をできている、長年の夢だった立派な羆猟犬も育て上げた。次なる目標がハンターの本場アメリカで自分の腕がどこまで通用するのか試したい。

そうして伝手を辿って紹介されたのがモンタナ州のプロハンター養成学校『アウトフィッターズ・アンド・ガイズ・スクール』です。校長の名前からとって通称『アーヴスクール』と呼んでいます。

宿舎に泊まりながら5週間19科目の専門授業が始まります。馬学、射撃、動物行動学、マップリーディング、応急処置、調理や解体など。なかでも射撃教習は業界で高名な専門家に久保さん自身が調整した日本のライフルを絶賛されてバッファロー・トシと呼ばれていました。

卒業後はカリフォルニアやアイダホ、ユタでハンティングガイドの仕事をこなします。

定住

帰国後にフチとの再会。また北海道での理想の猟をできること、フチと一緒に山に入れることが楽しい。やはり久保さんにとっては道楽としてのハンティングガイドより、北海道の山で自分が食っていくためのライフワークのほうが合っていました。

ハンターとしての階段をすべて登り切って完全燃焼したところで物語は幕を閉じます。彼はそのまま標津町の離農した農家の牧場を引き継ぎ、家庭を持って現在もハンターとしての活動を続けています。

※2024年4月10日、76歳で死去されました。

書評

まず本書はエッセイ調なので平易な文章で分かりやすい内容です。久保さんの性格から淡々とした調子ですが、ときに感情の高ぶりをみせる熱のこもった文章になっていてメリハリがあります。時系列に沿って書かれているのも読みやすいポイントです。

幼少の頃に猟の魅力にとりつかれて、大学卒業してからプロとして単独猟を極め、最高の猟犬を育てあげ、渡米して本場のハンターの世界で活躍し、帰国してからホームグラウンドの標津に根を下ろします。数々の苦労はありましたが、結果だけ見てみると常に向上心を持って順風満帆に駆け上がっていったイメージでした。

猟において最も印象的なのが、獲物をとってから血だらけの手でタバコを吸う姿。緊迫した野生動物との駆け引きが終わって、いっきに肩の力が抜けて読み切れるところで絵になりますね。

食事シーンを描写するのも上手で、獲ったばかりの羆やシカの心臓を焚火にあぶって、焼けたところからナイフで削いで食べるのはハンターの特権です。シカ肉の刺身、川で獲った魚を混ぜ込んで飯盒で炊いたご飯など、どれも美味しそう。味の表現が優れた料理エッセイとはまた違った、自然の中で命のやりとりをした状況から生み出された食の見せ方がそうさせてるのかもしれません。

そして彼の猟はフチと一緒に山に入るようになってから、とくに面白くなってきます。犬に猟を仕込む難しさに見合ったリターンがあり、とった獲物を一緒に食べて喜びを共有しているのも良いですね。

猟犬を育てる難しさはよくわかっていた。犬はそれを使う者の技量以上には決して育たないのである。

三章 140p “襲撃された牛舎”

序盤は自分の猟の甘さ、焦り、後悔など、技術的にも精神的にも青さが見えました。1発で仕留めきれずに、鹿が必死に逃げ回るのを追い続けていました。それが今では獲物は1発で仕留める伝説のハンターといわれるほどに。

本書では狩猟やサバイバルの知識も豊富に書かれてるので、狩猟やキャンプに興味がある人にとっても必読のエッセイになるでしょう。教本ではないのでノウハウを得るより、自然や食に対する責任、哲学など思想的な意味で非常に意義のある一冊です。

羆撃ち

¥702

羆撃ち
久保俊治

メディアで大反響を呼んだ、猟犬フチと羆を追う孤高のハンターの物語。

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【ハツカネズミと人間】アメリカの農場を渡り歩く非正規労働者の儚い夢と現実

読むのは2度目でしたが、初めて読んだときには気が付かなかった伏線や人物の心情を楽しめました。

ボリュームが中編程度と読みやすく、2023年に新装版文庫も出版されているので、これから海外文学を読んでみようというかたにもおすすめの一冊です。

ジョン・スタインベック

「怒りの葡萄」でピューリッツァー賞を受賞、1962年にノーベル賞を受賞。

あらすじ

アメリカのカリフォルニアを舞台に、ジョージとレニー、二人の渡り労働者と農場での人間模様を追った物語。

小柄だが頭がきれて口がよく回るジョージと、体はでかいが幼児レベルの知能しかないレニー、対極にある2人がペアを組んで農場を転々と渡りあるきます。2人に友情があるのは確かだが、どこか互いに依存してる部分があったり、不安定な関係であることが感じられて落ち着きません。

農場のリーダー格である気立ての良いスリム、横暴な親方の息子カーリーと奔放な妻、余生が迫るキャンディ老人など。農場内での人間模様が鮮やかなヒューマン小説。

将来自分たちの農場を持つ夢を抱くジョージとレニーは、この農場である現実を目の当たりにします。

ジョージとレニー

ジョージとレニーは前に働いてた農場から追いやられるようにして、次の農場を目指して近くの河畔まできていました。夕暮れだったのでその日は農場より少し手前で野宿します。

夕食の準備中にレニーはポケットにハツカネズミの死骸をしのばせて手でもてあそんでいます。レニーにとってはただ動物や素敵なものをかわいがりたいだけで、前の農場でも女の綺麗なドレスに触りたいだけだったが、女が身を引いても手を離さないからパニックになって、そのまま逃げるはめになりました。

新たな農場ではレニーのその大馬鹿がばれないように、ジョージは「親方には何をきかれても一言もしゃべるな」と釘をさしました。レニーはとにかく力と体力だけはあるのだから、黙って仕事ぶりだけを見てもらうという寸法です。

一晩明かして翌日の昼前に農場へ到着。老掃除夫キャンディに宿舎の案内を受けます。

二人は親方に労働カードを渡して今日から働く手続きを済ませるが、親方はジョージがレニーに喋らせないことを不審に思います。ジョージはレニーがラバの扱いも耕作機の操作もできるし、400ポンド(約181㎏)の俵もかつげる、利口じゃないから喋らないが働きっぷりは確かですよと、ジョージの機転と口上でなんとか切り抜けました。

その日の夜の飯場。キャンディ老人の犬が臭すぎると、ほかの労働者が追い出そうとせきたてます。老犬はどうせ先が長くないし、生きているだけでも辛そうなのだからいっそ楽にしてやるべきだと、拳銃で安楽死させるために犬が連れだされました。キャンディは納得できませんがそれを受け入れるしかありません。

飯場には犬を失って傷心のキャンディと、ジョージとレニーの3人しかいない。そのときレニーとジョージが将来自分たちの農場を持つ夢の話をしていたところ、キャンディが仲間に入れてほしいと嘆願してきます。そのかわりに土地を買う資金に貯金の350ドル出すと提案。ジョージとレニーは2人月末の給料合わせて100ドル入るから、小さな土地を買う夢の話も現実的になってきました。

ジョージの決断

ある日、黒人の馬屋係クルックスの部屋に迷い込んできたレニー。2人は彼の部屋でしばらく他愛のない話をしていました。

クルックスは黒人差別を受けていて農場では孤独だったし、自尊心が強い性格なので寡黙で他人とは距離をおく性格です。しかしレニーはどうせ馬鹿で何を話したところで忘れるからと、身の上話をしていたところ、カーリーの妻が部屋に入り込んできました。

カーリーの妻の訪問が発端となり、レニーは大きな事件を起こしてしまいます。困ったレニーはジョージとあらかじめ話していた「困ったことがあったら逃げ込む場所」を目指して姿を消します。

町から帰ってきた労働者たちがその事件を目の当たりにすると、ジョージはとある決断をくだします。

書評

農場内のそれぞれの人間性を引き出しながら、それだけで世界観を作り出している本書。さらに場所と時間が限られていて、木曜日の夕方~日曜日の夕方までの4日間で、場所は2人が訪れた農場とサリーナスという河畔のみに絞っています。しかもずっと農場にいるのに、仕事をしている描写は一切ない。仕事が終わった後の、労働者たちが飯場で賑やかにしている雰囲気だけで、作品全体の輪郭を作ってます。

一貫して外面描写に徹しているので、人物のこう思ったとかこう感じたといった主観的な内面描写はありません。そのため淡々とした筆致にはなりますが、ジョージとレニーの友情や夢への渇望など、農場で働く人々の人間模様が生彩に描かれています。

基本的には常にジョージとレニー、その周囲の人間の様子や会話だけを追ったヒューマニズムに徹した作品です。

ジョージにとっては馬鹿なレニーがいなければ気楽に働いて、稼いだ金をぱっと使って、また働きにでるという調子のよい暮らしができるのに、それでもレニーと一緒に居続けるのはなぜなのかが要になっています。

実はとくに重要なシーン、キャンディの老犬の臭いに迷惑していた労働者が犬を射殺するシーン。周りの労働者もキャンディに気を遣う素振りを見せますが、どうしようもない状況でした。銃を持って犬を連れだしてから、だいぶ間が経ってから銃声が響くのですが、明記されていないがたぶん犬は安楽死ではなく殴られたりしながら最期のとどめに撃たれています。

キャンディ老人は後に「あのイヌは自分で撃てばよかった、よそのやつに撃たせるんじゃなかった」とぼやくのが印象的。

あまり言及すると最後のネタバレになってしまうけど、この撃たれた老犬はレニーの暗喩で、レニーが引き起こす事件の顛末に非常に重要な意味を持たせてくれていると思われました。

また、本好きとして個人的に印象に残ったセリフ。

本なんて、つまらねえよ。人間には仲間が必要だ――そばにいる仲間が。

114p 黒人の馬屋係クルックス

差別を受けていた黒人クルックスだからこそのセリフで、ここでいう「仲間」というのもあらゆる意味をはらんでいます。人間が社会的生き物で、一人では生きていけないこと、そしてときにはその社会によって葬られてしまうこともあること。

最期まで読んでわかるこの話の切なさとやるせなさ、ジョージとレニーの不安定だけど確かな友情というのが、読者の胸をしめつけてきます。

ハツカネズミ

本作の題名「ハツカネズミと人間」はスコットランドの詩人ロバート・バーンズの詩「ハツカネズミに」からとられていて、この小説そのものを表しています。

ハツカネズミと人間の このうえもなき企ても

やがてのちには 狂いゆき

あとに残るはただ単に 悲しみそして苦しみで

約束のよろこび 消えはてぬ

ハツカネズミと人間

¥572

ハツカネズミと人間
ジョン・スタインベック
大浦暁生(訳)

『怒りの葡萄』でピューリッツァー賞を受賞した著者による中編。木曜日の夕方から日曜日の夕方まで、河畔と農場での会話と情景を切り取った戯曲的小説。

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【西の魔女が死んだ】繊細で感受性豊かな少女が上手な生き方を探る魔女修行

梨木果歩デビュー作にして代表作。数々の文学賞を受賞し200万部強の名作となった「西の魔女が死んだ」

植物をテーマに語るポッドキャストで紹介されていて、読んでみると植物の豊さや恵みを実感することになりました。

人一倍感受性が強い、中学1年生の主人公まいはある理由で学校に通えなくなります。その間、田舎のおばあちゃん、通称「西の魔女」のもとで、魔女修行の手ほどきをうけ、暮らしの中で少しずつ成長していく物語です。
※この本における魔女というのは、身体を癒す植物に対する知識や自然と共存する知恵に長けた人を魔女と呼ぶ歴史的観念。

梨木香歩

小説家、児童文学作家。「西の魔女が死んだ」で日本児童文学者協会新人賞、新美南吉児童文学賞、小学館文学賞を受賞。叙情性豊かな表現で幅広い読者を獲得している。

あらすじ

中学校にあがったばかりのまいは「あそこは私に苦痛を与える場でしかないの」といって登校拒否。

しばらく学校を休んで田舎のおばあちゃんの家で過ごす提案を受け、通称「西の魔女」のもとへ。家の裏の畑から野菜をとってきたり、鶏小屋の卵で朝食を食べたり、田舎の新鮮な空気と大好きなおばあちゃんのもとで豊かな暮らしが始まります。

まいが車から荷物を取りに庭に出ると、車をのぞくあやしい男と鉢会います。この男こそまいにとっての天敵ゲンジさん。挨拶を交わすが、初対面でいきなり高圧的な態度をとられ、学校を休んでることに対して嫌味を言われ、最悪の出会いとなってしまいます。

おばあちゃんがまいに、魔女を知っているかと尋ねました。まいはファンタジーの世界のほうきに乗った魔女ではない、現実の魔女について教えてもらいます。そして現実の魔女が備えていた特殊能力、おばあちゃんのおばあちゃんが際立っていたのは予知能力でした。そんなひいひいおばあちゃんの予知能力が開花したエピソードを聞くと、その話がずっと気になって自分も魔女の能力を持てるようになるか気になって仕方がありません。

こうしてまいの魔女修行が始まります。

はじめはスポーツ選手が体力をつけるように、魔女の奇跡や超能力を起こすには精神力を鍛えなければなりません。規則正しい生活を身につけて、自らの意思で自分を律していく力を養うこと。まいはおばあちゃんの家で生活リズムを整え、家事に参加して、勉強の時間割を作ります。

魔女の心得は「自分で決めること」それに尽きる、さらに上等な魔女になるには外からの刺激に動揺しないこと

ある日、いつものように鶏小屋に卵を取りに行くと鶏が何者かの動物に殺されていました。パニックになったまいは食欲をなくし、そのまま部屋で休みます。昼頃にはゲンジさんが訪れ、鶏小屋の壊れた金網を修繕する段取りに。

数日後にまいは修理代金を払うためにお金をゲンジさんに渡しにいきます。これも修行のひとつ。そう言い聞かせてあの嫌いなゲンジさんの家に行きました。しかしまたも心無い言葉を浴びせられ、怒りと屈辱にまみれて、心をかき乱されて帰ってきます。

おばあちゃんは心が怒りや憎しみなどに支配されることが、どれだけ人を疲れさせてしまうのかを諭して、ようやく落ち着きを取り戻します。

しかしまた別の日、まいが一部土地をもらったお気に入りの場所に行くと、そこから少し離れた場所でゲンジさんがスコップを持ってなにやら掘り返しています。ばつの悪そうな顔で「タケノコを掘っているんだ」と言いましたが、まいにとっては自分の神聖な場所を侵されたような気がしてならなりません。ゲンジさんのことになるといつも心を乱される。なぜおばあちゃんはあんな粗野で下品なゲンジさんの肩をもつのかわかりません。そうしてまいとおばあちゃんは言い合いになり、気まずい数日を送った後にまいはおばあちゃんの家を去り両親のもとへ帰りました。

書評

にんにくをバラの間に植えておくと、バラに虫がつきにくくなるし香りもよくなる。クサノオウは猛毒だけど、眼病に効く薬にもなる。こんな植物豆知識が読んでいて楽しい、緑豊かでどこかほっとさせる物語です。

まいの感受性が強すぎる性格、今でいうところ「繊細さん」とか「HSP」とか言われたりする人がいますね。何かしら生きづらさを抱えやすいタイプで、まいの母も「昔から扱いにくい子だった、生きていきにくいタイプの子よね」と電話口で話すところがあり、まいはそれをいつまでも覚えてます。

嫌なこと一つあると、その日のすべて何もかもが台無しにされたような気分。それこそ読む人の感受性によって、どれだけまいに同情できるか具合が変わってきます。私もそういった経験や感情はこれまでに幾度となく向き合ってきました。

逆にまいとは対照的な図太くて大胆な人物ゲンジさん。

実はゲンジさんは本当に嫌な人だったのか、という疑いが私の考察する彼の人間像です。雨が続いたあとの日にスコップでタケノコを掘っていたのは嘘で、まいの死んだおじいさんのために銀龍草を探していたのではなかろうか。ゲンジさんの豪胆で遠慮のない接し方は、彼なりの歩み寄りだったのではなかろうか。

上手な人付き合い、負担にならない感じ取り方。そんな人間の心の難しさを、まいの繊細な感受性を通して読者に伝えているようでした。

まいとおばあちゃんのつくったジャムは、黒にも近い、深い深い、透き通った赤だった。嘗めると甘酸っぱい、裏の林の草木の味がした。

48p

なにより上記のような、穏やかなおばあちゃんの家でつくる自家製食材や自然の恵みが美しいのです。それを文章にして物語に自然と溶け込ませる梨木果歩さんの筆力もとても素晴らしいですね。

軽い文体でスラスラ読みやすく、まいとおばあちゃんの会話、自然の情景、暮らしの知恵、魔女修行と称した生きるための心の持ちよう、そして主人公であるまいの成長。物語の内容、構成、読みやすさのすべてのバランスが良くて、大ヒットの名作となったのもうなづけます。

後日談

「渡りの一日」ではまいが同級生と一日をすごす話。魔女修行で成長したまいの姿が立派に描かれています。

また、梨木果歩作品集に、ブラッキーの話(まいの母と愛犬ブラッキー)、大人になったまいが祖母を追憶する話、まいが去ったあとのおばあちゃんなどスピンオフ作品もあります。

道草を食む

「西の魔女が死んだ」有名なタイトルだけあり知ってはいましたが、なかなか読む機会がありませんでした。

私のお気に入りのポッドキャスト番組が、本書を紹介していたのが決め手となり、ついに手に取った次第です。ここでの紹介の仕方も上手で、本当に読んでしまいたくなる内容です。

雑草を生活に取り入れて暮らしを豊かにするというコンセプトの「道草を食む」から、ヒメワスレナグサを紹介したエピソード。正式な名前ではないが、この本にも登場する重要な植物です。

ぜひこちらのポッドキャストでも「西の魔女が死んだ」の作品紹介、そしてパーソナリティMichikusaさんが語る雑草の世界の魅力を楽しんでください。

西の魔女が死んだ

¥649

西の魔女が死んだ
梨木香歩

感受性豊かな少女が魔女修行によって成長していく物語。

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【老人と海】男の矜持がつまったヘミングウェイ代表作

年老いて落ち目となったひとりの漁師が、年齢による衰えにも抗いながら、3日3晩大物カジキと海で格闘。

非常にシンプルなストーリーで、極論ただおじいさんが大きなカジキを釣り上げて帰ってくるだけ。ひたすら一人で孤独に3日間船の上でカジキと格闘しています。

自然の驚異に屈しない老人の意地とプライドが、まっすぐと淡々に描かれていました。

アーネスト・ヘミングウェイ

1952年本作「老人と海」でピューリッツアー賞、ノーベル文学賞を受賞した。

あらすじ

老人サンチアゴのかつての異名はザ・チャンピオン。歴戦の漁師で、その体つきや傷までもがたくましい男です。

しかしここ最近はずっと不漁続きで、ついにサンチアゴも落ち目となりました。

少年マノーリンはサンチアゴのことをずっと慕っていたが、彼の不漁が40日続いたころ、ついに船を降りるように親から言われます。それでも彼はまだサンチアゴの船に乗りたかったし、一緒に漁に出たかった。そんな少年が、老人の最後の漁になるであろうことを悟りながら彼の出港を見送ります。

サンチアゴは日が昇るまでに仕掛けを準備し、堅実な手順でぬかりはありません。舟を波任せにしようとしたところ、ついに鉤にカジキがかかります。

かなりの大物で思うように引き上げられず、カジキの体力が底をつくのを待つしかない持久戦に突入。4時間カジキに綱を引かれながら、老人はそれをただひたすら支え続けます。手を攣って、擦り切れて、背中を痛めて、休憩もとれず、綱にかけてから、丸一日たった頃、カジキがようやく海面に姿をみせました。舟よりも2フィートは長いその巨体を。

とうとう2晩を明かして3度目の日の出。カジキと舟の距離を縮めるチャンスが巡ってきました。綱をどんどんたぐり寄せて、船べりで銛を突き下ろしてなんとかしとめました。

カジキを舟にくくりつけて家路につこうとするも、今度はカジキの血を追ってサメが迫ってきました。老人のさらなる試練の結末はいかに。

書評

読者視点だと釣りや漁にある程度関心がないと想像しにくい状況が多いなとは思ってました。舟はオールを漕いだりしてるから小さいもので、使ってる道具や操作などはなんとなく理解できます。

野球選手の話も頻繁に出てくるので、巻末の解説に続く翻訳者の「翻訳ノート」を先に読むことをおすすめします。当時のキューバーとアメリカの野球事情と、老人が出航する海の実態について補足されています。

老人は今回の漁以前は三か月近く全くの不漁だったから、周囲からはもう落ち目だとされていました。そんな状況で、老人が漁師としてのプライドを携えて、慕ってくれる少年のために最期にひと花咲かせた話。

読み手の感動を誘うような湿っぽい感じではなく、「ついにやったな」という感じで静かに感動させるドライな読みごたえでした。これがいわゆるハードボイルドといわれる感覚なのかもしれません。

状況自体は船上で水中のカジキとひたすら膠着状態、場面転換がなく老人のモノローグが続くので、少々退屈で読みつかれる気もします。

また、老人は決して嘆いたり、状況を悲観したりはしません。サンチアゴの海に対する敬愛が彼を支えてくれたいたのでしょう。そんなサンチアゴでも弱音をもらすのが、船の上で何度も「あの子がいればな」とぼやいて、マノーリンが心の支えになっていたことも伺えます。

一方でマノーリンも、上手な漁師はたくさんいるけど、おじいさんみたいな最高の漁師はほかに一人もいない。二人が信頼し合っていたのがわかる素敵な関係です。

そんな信頼関係が最後のシーン、マノーリンが老人のぼろぼろの手の平を見て泣くところに生きていますね。老人の帰りが遅かったのを心配していたのではなく、帰ってくることは信じていたし、そのうえで漁師としての誇りを見せられたことに感動したように思われます。

老人と海

¥572

老人と海
アーネスト・ヘミングウェイ
高見浩(訳)

ノーベル文学賞をもたらした文学的到達点にして永遠の傑作。