『ゴリラ裁判の日』(須藤古都離著)は、第64回メフィスト賞を受賞した作品で、2016年に実際に起きた「ハランベ事件」をモチーフにした異色の法廷サスペンス小説です。この作品は、ゴリラと人間の関係性を通じて「正義」や「人間とは何か」という深いテーマを問いかけています。
あらすじ
物語の主人公は、アメリカの動物園に住むメスゴリラのローズ。彼女はカメルーンのジャングルで生まれ、研究所で手話を学び、人間と意思疎通ができるほどの高い知能を持っています。動物園での生活の中で、オスゴリラのオマリと出会い、夫婦として幸せな日々を送っていました。
しかし、ある日、動物園で悲劇が起こります。ゴリラの囲いに人間の子供が落下し、オマリがその子供を守ろうとするも、興奮状態に陥ったと判断され、動物園側によって射殺されてしまいます。この事件をきっかけに、ローズは夫の死を不当だとし、動物園を相手取って裁判を起こします。
裁判では「人間の命と動物の命、どちらを優先すべきか」という倫理的な問題が争点となりますが、最初の裁判ではローズは敗訴します。判決に納得できないローズは、「正義は人間によって支配されている」と感じ、再び裁判に挑むことを決意します。
物語は裁判シーンから始まり、ローズの過去の回想を挟みながら進行します。彼女がどのようにして人間社会と関わり、夫オマリと出会ったのかが詳細に描かれています。後半では、再び裁判に挑むローズの姿が描かれ、クライマックスに向けて緊張感が高まります。
22p ローズ
正義は人間に支配されている。
ローズの誕生、ローズの裁判から物語がはじまる。
人の命と動物の命、やはりゴリラより人間の命のほうが大事だと結論。
自然の中であるがままに暮らすのがなんと素晴らしいか。アイザックと一緒にいるとジャングルの中には私に必要なものがすべてそろっているように思える。
それはロイド上院議員の見ている世界とは正反対の世界だ。他人の心情や都合、経済や政治に煩わされることなく、気の向くままに時間を過ごすだけ。
もちろん自然の世界にも都市にはない危険や厳しさがあるが。
ゴリラには一頭のオスに複数のメスがいるのが普通なのに、ローズにはそれが耐えられないものになった。今ならサムとチェルシーが別れた理由もわかる。言葉を持ってしまったからか、人間の文化に慣れすぎたからか、いつのまにか人間と同じように感情的になっている。生存本能よりも個体としての感情を優先するようになってしまったのかもしれない。
→アイザックに再会したら、昔中の良かったメスゴリラがアイザックの妻になっていたことが悔しくて許せなかった。
テオをばかにしたことを謝ると、彼の底抜けに明るい笑みに救われた。記者が押し寄せようが武装警備員がこようがどうでもよく、テオをばかにした動画がテレビに流れたことが一番の問題だった。
このように友達おもいな面が多くみられる。
リリーの服を見て、同じ服をユナに作ってもらうよう頼む。人前でうんこしちゃうのが嫌だけど、おむつだけしてるのはカッコ悪いから、それを隠すような服がほしい。
十章 195p ローズ
「ゴリラを見に来るのに、私の中に人間を見てるんだよね。みんな私を見に来ているみたいで、実は違う。それぞれが見たいと思ってるものを見に来てる」
韓国人のユナの服を着るからアジア系の人が親しみやすく、カメルーンにルーツを持ち体毛が黒いからアフリカ系が親しみやすい。そうやって人間は自分たちを定義しているものを他人にも当てはめるものだから。
敏腕の弁護士ダニエルがローズに説教をする。それはローズが最初の裁判で負けたときに司法制度を馬鹿にしたからだ。
「公平な社会を築くために人間が努力している間、ゴリラは何をしていた?少しでも手伝ってくれたか?君みたいなよそ者に、司法制度を侮辱する資格があるのか?人間が正義を独占しているんじゃない、人間が正義を作りあげてきたんだよ。もちろん、誰のためでもない、自分たちのためだ。公正な社会を達成するために。自分が裁判に負けたから法廷を侮辱するってのは、僕たちみたいな司法に関わっている人間にとっては許せるものじゃないんだよ」
裁判の4人目の証人はクリーガー博士。彼はゴリラに手話を教えるのが前例がある以上再現は環境さえ整えればたやすいこと、博士の定義する人間と動物の違いが種全体として複雑な言語体系を持つか否かにある。事前に言質を取ったうえでこう言わせたことに意味があった逆転裁判だ。
オマリはつまり言語を学ぶ機会を与えられなかった人間であるという詭弁ともとれる展開だがつじつまがあう。
そもそも人間の定義があいまいで、慣習によって移り変わる。昔は有色人種に人権は認められていなかった。慣習に盲従することがどれほど危険かと。
ゴリラの力が強すぎることが問題なら、銃を持つ人間すべても同様に排除されるべきなのかと念を押した。
人間という言葉を使うときに他国の人は含まれるか、肌の色が違う人は、ゴリラは?社会通念をアップデートするのは厳しいが、いままさに人間という言葉が包括する意味が大きく変わろうとしている。
ローズにとって言葉は魔法だった。目の前にいる誰かとお互いの気持ちを伝えあい、理解し合うための優しい道具だった。自分の心を差し出すことも、相手の心に触れることもできた。
言葉を覚えさえすればそこにゴリラも人間もない。
だが今は言葉は戦う道具でもある。言葉によって心を削られ、戦いに疲れた。
あらゆる大人に与えられ感謝してきたが。
最後の最後に友達として描かれていたのは大人ではないリリーだった。
謝辞
ゴリラ描写においてフィクションもある。ローランドゴリラはオス同士の連携が弱いので徒党を組んで急襲することはない。嬰児殺しはマウンテンゴリラに特有のものでローランドゴリラにはみられない。
感想・書評
『ゴリラ裁判の日』は、斬新な設定と深いテーマ性が高く評価されています。ゴリラが裁判を起こすという一見シュールな設定ながら、物語は非常にリアルで感動的です。読者はローズの視点を通じて、動物と人間の違いや共通点、そして社会の不平等について考えさせられます。
この作品は、単なるフィクションではなく、現実の事件や科学的知見をもとに構築されており、読者に新たな視点を提供する良作といえるでしょう。
本作は、単なる法廷劇にとどまらず、以下のような深いテーマを扱っています。
人間とは何か?
ローズのように高い知能を持ち、人間と意思疎通が可能な存在は「人間」とみなされるべきなのか。法律上「人間」の定義がないことを背景に、作中では人権や倫理の境界が問われます。
動物と人間の命の価値
物語の中心には、動物の命と人間の命の優先順位をどう考えるべきかという問題があります。オマリの射殺が正当化される一方で、ローズの視点を通じて動物の命の重みが描かれます。
ゴリラの人格(ゴリラ格)
ローズの過去や日常生活が詳細に描かれることで、彼女が単なる動物ではなく、感情や知性を持つ存在として読者に強く印象付けられます。彼女の「ゴリラ格」ともいえる人格が、物語の説得力を高めています。
法と正義の限界
法律が人間中心に作られている現実を浮き彫りにし、正義が必ずしも普遍的ではないことを示唆します。ローズの裁判を通じて、読者は「正義とは何か」を考えさせられます。

ゴリラ裁判の日|須藤 古都離
講談社