
カフカの代表作となる中編小説。カミュの「ペスト」同様に実存主義文学かつ不条理文学といえます。
朝、目を覚ますと俺は虫になっていたという始まりは衝撃的です。
あらすじ
ある朝、グレーゴルが目をさますと自分が巨大な毒虫になっていました。鎧のような堅い背、褐色の腹、たくさんの足、ねばねばした分泌液。
まだ夢の中ではと思ってもうひと眠りしようとしても、慣れない虫の体のせいでうまく眠りにつけません。
こんな異常事態でありながらグレーゴルが考えていたことは、外交販売員としての仕事の苦労のことでした。すでに汽車に乗る時間を逃してしまい、仕事に遅刻することが確定しています。
時間に心配した母と父が起こしに来るがうまく返事ができません。相手の言語は解るが、こちらから発声して伝えることができないのです。
グレーゴルは日ごろの習慣により、部屋の戸締まりはきちんとしていたので、家族が様子を見に来てもとりあえず部屋にこもってやりすごしていました。
虫になった体でどうにかベッドから起き上がり、仕事に向かう支度をしなければ。
ついに職場の支配人が訪ねてきたので「体調が悪い」と適当な問答をして場をしのごうとするが、ついに両親と支配人たちが鍵屋を呼んでこじあけようとします。
なんとか自力で扉をあけて姿を表すと、母は絶句、父は臨戦態勢、支配人は恐怖のあまり逃げ出してしまいます。支配人に状況を取り繕ってもらうために、グレーゴルは追いすがろうとするが、その恰好が襲おうとしているかのように勘違いされました。父が棒でグレーゴルを追い立て、虫の姿で自室に引きかえすしかありませんでした。
今後もこのような誤解が生じ得るので、うかつに行動できません。そうしてグレーゴルの自室でのひきこもり生活が続きます。
グレーゴルは虫であることに順応し、家での居場所を失い、人に傷つけられていき…最後にグレーゴルがとった選択とは――。
書評
まずとにかくシュールな設定が目を引きます。ベッドから起き上がるだけでも相当な時間がかかり、そんな状況にグレーゴルは自分でもおかしくなって笑っちゃいます。
そして虫になったまま、仕事に行かねばと焦っている点。どうしてこの状況を素直に受け入れているのか、もっと気にすることがあるだろうにと思って仕方ないですね。
この本を読み解いていくと、虫になったこと、それ自体には意味を持たせていません。だから最後まで虫になった理由も何も説明がなく、その状況が当たり前かのように淡々と進行していきます。
そして個人的にはグレーゴルの健気な性格に少し心を痛めます。こんな不条理に見舞われても、仕事のこと、家族のこと、そしてお金のことなど、彼は常に他者のためを想っていました。両親の借金を肩代わりしながら、やりたくない仕事を続け、広い家に住まわせている孝行ぶり。妹の音楽大学のための学資まで工面していました。
それが虫になってしまったばかりに、家族に気を使って怯えながら生活し、人間としての尊厳は急速に失われていく。逆に虫として扱われることに慣れていき、自尊心なんてあったもんじゃないでしょう。
彼の世話役を買っていた妹の心情も複雑です。慕っていた兄が突如虫になり、家族の中で自分しか世話をしない。最初はそんな微妙な気持ちで世話をしていたのが、次第にグレーゴルを虫を飼っているかのような対象として捉えだす。そんな妹の狂気のようなものが見え隠れします。
虫の姿について
このグレーゴルが『なんの虫』になったか、これはあらゆる議論がありますが、基本的には特定の虫を想定していないようです。作中でもグレーゴルは極力他人に自分の姿を見せないようにしているので、客観的な彼の姿を表している描写はありません。
グレーゴル自身の動きからさっするにムカデか、ゴキブリか、コガネムシなどいくつかの憶測はありますが、具体的な言及はされていません。確かなのは硬い外殻があること、毒があること、粘液を分泌することなどですね。
作者のカフカ自身、作品としても虫の姿を見せて読者にイメージを固定化させるのは避けたかったようです。その根拠に彼は、扉絵や挿絵に絶対に虫の姿を描かないよう要求していました。
一説によると虫の姿を固定化させない理由に、読者に想像を拡大できるようにしてるのではと思われます。
例えば、もし変身していない前提で状況だけを整理すると、グレーゴルは家族を養いながらしたくもない仕事を続ける重圧からノイローゼになった、とも捉えられます。虫になったか否かだけを取り除けば現実にあり得る話で、まるでグレーゴルにふりかかった事故のように思えます。なぜ虫になったのかといった問いは一切なく、誰も気にせず、それこそふいに日常を襲う不条理性を描いているようです。
それでも生きていかなければならない、ここに本作の実存主義的な意図が見えます。
実存主義と不条理
虫になったことが事故だと前述しましたが、これもまた現実に置き換えられます。
例えば不慮の火災で顔を火傷して醜い姿になったとする。この容姿に対する不条理な事故という点において、虫になろうが、顔を火傷しようが、その原因や本質を追求しても仕方ない。事実は事実とただ受け入れて今を生きるしかありません。
これが実存主義。
実存は存在そのもの、本質はその存在が作り上げる目的や意義だが、起きた事故に目的や意義なんてありません。
これらの解釈を広げていくと、人間というのは本質をもたずにこの世に産み落とされるものだと思えます。本は知識を与えるために書かれるし、時計は正しい時間を刻むために生産されます。人間もなにか運命や使命に定められていると思われるでしょうか。しかし人間は自分の未来を選択する能力があります。
「何のために生まれてきたのか分からない」なんて悩みは多いですが、本質を伴わないまま右往左往しながら生きていくから、誰もが常に不安をかかえているのです。逆に言えば何にも縛られない自由であるということ。
人生において常につきまとう不安から逃れるために目的や意味を求めるのではなく、自身の自由な意志と選択をもってして主体的に生きるのです。
当然その自由には責任も伴うが、だから生きるのは楽しい。そう哲学者のサルトルは言っています。
この実存主義的な思想で、不条理に抵抗していくさまを文学に落とし込んだのがカフカの変身です。