
人間に内在する善と悪の二面性を捉えた二重人格の代名詞となった名作。ジキル博士が純粋な悪に心を染めてハイドに成り変わること、その悪への誘惑に抗いきれなかった男の悲劇。
あらすじ
精悍な弁護士アタスンは友人から噂話をききました。ある小男と少女が十字路で鉢合わせてぶつかった際に、小男が少女を踏みつけてその場を去った事件。小男はすぐさま周囲の人に連れ戻されたが、示談金として100ポンドを支払ってことを済ませようとします。しかしその100ポンドの小切手がロンドンでも高名な人物ジキル博士の名で支払われたのが問題でした。
少女を踏みつけにした邪悪な小男はハイドと名乗ったが、高名なジキル博士といったいどんな関係があるのか。
アタスンはかねてよりジキル博士から遺言状を預かっており、博士が死んだら財産のすべてを友人のエドワード・ハイドに相続するという内容だったことを思い出します。
後日ジキル博士にハイドの件についてアタスンが尋ねるが、ジキルはその件について深くは触れずにかわされてしまいます。
またある日、街で国会議員がハイドに暴行を受け殺害される事件が発生。そのままハイドは一切姿をくらましてしまいました。
アタスンが再度ジキルのもとを訪ねて極悪人ハイドとの関係を断つように進言すると、ジキルはそれを聞き入れたものの外界との接触を拒んで家にこもる隠遁生活となります。その様子を見てアタスンはジキル博士に対してますます不安と心配を募らせました。
ハイドが完全に消息を絶ち、ジキルが隠遁生活を始めてしばらくたったころ。ジキル博士の屋敷の使用人が、博士の様子がおかしいと訪ねてきました。その夜、アタスンがジキル博士のもとへ行くと、すでに事件が起きており…。
ロンドンを震撼させた悪人ハイド、彼を相続人にしようとするジキル博士の謎、そしてジキル博士の重大な秘密を知って亡くなった人物。これらのすべてが繋がる最後の夜が始まります――。
書評
本編は140ページほどの中編小説、古い本にしては内容が褪せない設定で、登場人物も少ないので非常に読みやすい本でした。
弁護士であるアタスンの視点でミステリー調に進行していきます。ミステリーとはいえ読者視点では、はじめからジキルとハイドが同一人物であることが分かり切っているので、ジキルの内心を探りながら事件の全容を明らかにしていく過程に物語の面白さがあります。
事件の全容が明らかとなる最後の夜の後、ジキル博士が遺書として残した手記による告白という二部構成です。このジキル博士の告白は、たった140ページの短い物語の4分の1も占めており、ジキルの切迫した思いや葛藤が鮮明に描かれています。
彼の手記の中で最も印象的だったセリフに、その苦悩とこの物語の本質が凝縮されていました。
「人間が抱えるふたつの人格を分離して考えるのが愉しみだった。”悪”のほうは、清廉潔白な双子のかたわれの理想や呵責の念から解放され、堂々とわが道を突き進むことができるのではないか。”善”のほうは、すじちがいの”悪”がもたらす恥辱や後悔にさらされることなく、喜びの糧である善行を繰り返し、迷うことなく高潔の道を進むことができるのではないか。この相容れない二本の薪がひとつの束にくくりつけられていることこそ、人類の呪いなのではないか。」
114p ヘンリー・ジキルが語る事件の全容 ジキル博士の手記
ハイドは紛れもなく悪だが、ジキルはあくまでも理性をもって悪を抑制した善の仮面をかぶった普通の人間です。人間はこの善と悪の二面性を合わせ持ってその人格を形成していますが、これがどちらかに振り切れることはないために相反する性質が精神内においてストレスを生むのでしょう。それを科学の力で分断して純粋な悪になりきれる快感に酔いしれてしまったのが、天才であるジキル博士の悲劇でした。
ちなみにジキルとハイドにはモデルがあります。18世紀、高級家具職人組合長かつエディンバラ市議会議員でありながら、裏ではスリルを求めてギャンブルの種銭稼ぎに夜盗をはたらく『ウィリアム・ブロディ』です。彼は家具師として自身で初めてエディンバラに絞首台を作り、初めてその刑具の受刑者になった皮肉な話。この顛末までもが本作のジキルとハイドの最期に重なるところがあります。