に投稿

【ペスト】コロナ渦を機に再注目された名作

コロナウィルスが流行ったことから、かつてヨーロッパで猛威をふるったペストを想起する人が多いようです。

驚異的なウィルスが蔓延る世の中で、人々がどのような様相を示すのか。歴史を顧みてわかることがあるかもしれません。

Albert Camus

フランスの小説家、劇作家、哲学者、随筆家、記者、評論家。1942年「異邦人」が絶賛され「ペスト」「カリギュラ」等で作家としての地位を固める。1957年ノーベル文学賞受賞。

あらすじ

194x年オランを舞台にペストを取り上げた記録物語。物語の語り手によってペストが蔓延したオランのできごとが記録され、合間に登場人物たちのストーリーが進行していきます。

オランはアルジェリアの主要な港町で商業の中心地です。当時の時代背景はフランスの植民地だったので、本土にお金を流すための経済のための町という感じ。

ロックダウンされて経済がストップすればつまらない町なので、登場人物たちは一層不安に駆られています。

主人公は医師のリウーと、彼の友人でありペストによる災禍で彼の仕事を手伝い続けたタルーの二人。

タルーはこの本の語り手によるペストに関する重要な記録とは別に、街や日常の些末なことをただ手帳に記録。この手帳からも語り手の補足として引き合いに出されます。

ペストによって町がロックダウンされるまでの記録を追い、それ以降はざっくりと紹介します。

  • 4月16日

    鼠の死体

    リウーは診療室から出るときに鼠の死体につまずく。普段こんなところに鼠が出現することなどあり得ない。さらに夕方にも瀕死の鼠を見かけた。

  • 4月17日

    門番の報告

    門番のミッシェル老人が、リウーに「鼠の死体を置いていくいたずらをしてくやつらがいる」と報告。この鼠の死体はリウーの診療所のみならず、すでに町中で噂になっていた。その日の午後には新聞記者のランベールがアラビア人の生活条件についての調査で取材に訪ねてきた。とくに衛生状態での話だったので、ここ数日の鼠の件について触れているのだろう。

  • 4月18日

    ペスト発生

    門番のミッシェル老人の顔色が悪い。さらに大量の鼠が診療所で見つかった。市の鼠害対策課によって、毎朝鼠の収集がされる。

  • 4月25日~28日

    大量発生した鼠

    鼠の死体は日ごとに増え、ピークで1日に8000匹以上が収集された。

  • 4月29日

    増加ストップ

    鼠の死体の増加はぱったりとやんでいった。門番のミッシェル老人がうなだれて、パヌルー神父に支えられていた。首や鼠径部に疼痛、腫物もあり、ひどく苦しんでいた。

  • 4月30日

    そしてロックダウンへ

    翌日、門番のミッシェルの死を皮切りに、町中で熱病におかされて死亡する例が増加。リウーは同業の医師と話してこれがペストだと認めざるを得なかった。リウーと友人のタルーはペストの対応措置をしてまわるが、患者の増加に追い付かない。行政の対応も緩慢で常に後手になっていた。

ロックダウン

患者は増え続けベッドの収容数が足りず、ついにリウーは知事に電話をかけ市が閉鎖されます。

町に入っていくことはまだしも、街から出ることは一切許されません。電話も郵便も規制されました。最初はせいぜい一時的なものだろうと世間は思っていたが、食料は高騰し、病に効くと噂のハッカ飴がよく売れ、映画館は同じフィルムをひたすら流して、尋常では考えられない街の様相になっていきます。

タルーはリウーなどの医師だけでは限界があることから保険隊を組織しました。グランは公務員として働きながら保険隊の幹事として熱心に取り組み、さらに自分の仕事として作家業もしています。彼は目立たないが堅実で真面目でリウーからの信頼も厚い。

一方で元犯罪者のコタールはペスト騒動にまぎれて逮捕されることが有耶無耶になり、この状況を歓迎していました。

同じロックダウン状況下でも、人それぞれの営みと向き合い方が映し出されています。

不条理

食料補給はより厳しくなり、貧しい家庭は極めて困窮、富裕な家庭はほとんど不自由しない格差が広がりました。

ペストは公平に猛威をふるうが、市民のエゴイズムによって人々の心には不公平の感情が先鋭化されていきます。もし唯一の平等があるとすれば、それは人はみんな死ぬということ。

こうしてペスト下における不条理な世界をあらゆる立場の人物を通して描いていくのでした。

書評

語り手は終盤まで正体を伏せられていますが、この語り手の記録によって人々が不条理に向き合う様相、語り手自身が不条理に見舞われる始末を見届けることになります。

この記録的な文章がいかにも客観的かつ無感動に徹しているようですが、その簡潔な文章の影にわずかな感情や気持ちが息づいてるのが不思議な読み心地でした。想像や感情に訴えるよりも、主として頭脳に訴えるような作品です。逆にその特徴的な文章が、小説にしては硬く読み難い気もします。

登場人物は多いけど、それぞれの立場が明確になっているので、人物の輪郭がくっきりとして群像劇の中ではかなり読み進めやすいものだと思います。

ペストによるこの不条理な世界を後世に残すための学術的記録のような重みもありながら、不条理に対する抵抗や受容のしかたが個人的な事象として捉えられる日記ともいえるでしょうか。文学的修練に培われたカミュの文体の魅力ですね。

ランベールの成長

個人的には新聞記者のランベールが次第に心変わりしていく様子が好きでした。

町からの逃走便宜をリウーに断られてからいろいろと奔走したが、合法的には抜け出せないことを悟って、密輸業者を介して衛兵を買収して脱出を試みるも失敗。最終的に彼も保険隊に志願し、自分一人の幸福よりも全体の幸福を願う人間に成長していきました。

町の惨状を目の当たりにして関わった以上、自分はもう町とは無関係の人間ではないこと。そんな気持ちを無視してパリに帰れば、待っている彼女に顔向けできなくなるだろうと想像するんですね。

最初は器の小さい嫌味な人間だと思っていたけど、いざ自分が同じ立場になってみたら、やっぱり自分も我先にと町から出ようとするかもしれないです。だからこそ彼の人間味にはリアリティがあって、その成長ぶりに希望を感じられるんですよね。

リウーとタルー

私が最も好きな登場人物はなんといってもタルーでした。

リウーとタルーの友情、知的な会話、タルーが身の上話を打ち明けて友情記念に二人で海に泳ぎに行く場面。いい大人が青春しているようで、この二人の醸し出す空気間には不思議な魅力があります。

「ペストが収束して平常の生活に戻るってどういうことか」と聞かれると、タルーは「新しいフィルムが来ることですよ、映画館に」と笑いながら言いました。このときの哀愁とユーモアは、本当に彼独特の味わいだと思います。

そして言ってしまうとタルーは最後にはペストに罹ってしまうのですが、ここでもやはりカミュの文体はとてもドライで、静かな感動を呼び起こされるようでした。

不条理文学

作者のカミュは不条理哲学を打ち出した人で、戦争・災害・全体主義といった極限状態への抵抗を描いてきました。

本作のペストはナチスドイツに対する暗喩ともされています。原作の1947年は第2次世界大戦が終わって間もないので、多くのヨーロッパ人はこの本を自分事のように理解していました。

ダニエル・デフォーのエピグラフに表れています。

「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである。」

ダニエルデフォー

つまり戦時中にナチスドイツへのレジスタンスに参加したカミュの体験が、ペストという別の形をとってフィクション作品として再現されています。

もっと広義的には、この世の悪、不条理などすべてに対する私たちの姿勢そのものと言えるでしょうか。人間が不条理とどう向き合って生きてくのかを示してくれる群像劇でした。

ペスト

¥935

ペスト
カミュ
宮崎嶺雄(訳)

発表されるや爆発的な熱狂をもって迎えられた、『異邦人』に続くカミュの小説第二作。

【参考図書】ペスト大流行

黒死病とよばれたペストの大流行によって、ヨーロッパでは3千万近くの人々が死に、中世封建社会は根底からゆり動かされることになった。記録に残された古代以来のペスト禍をたどり、ペスト流行のおそるべき実態、人心の動揺とそれが生み出すパニック、また病因をめぐる神学上・医学上の論争を克明に描く。

村上陽一郎

東京大学名誉教授

古代世界のペスト、最初のペスト文学から始まり、その歴史をたどっていきヨーロッパ社会を脅かしたペストの驚異を浮き彫りにしていく本です。

  • ペストは保菌者であるノミの咬傷からペスト菌が血液中に注入されて発病
  • ネズミをはじめとした齧歯類も共通して宿主となり、とくにクマネズミが媒介
  • 「腺ペスト」は40度前後の熱発、麻痺や硬直、精神の倦怠感や錯乱、そして局所的な淋巴腺の腫脹、紫斑や膿胞が黒いことから黒死病という
  • 「肺ペスト」は淋巴腺の腫脹は見られないが、肺炎症状で心機能が低下して突然死を誘うこともある
  • 死亡率は時期や社会的状況をすべてひっくるめて平均30~40%
  • 現代でも地球上にペストはあるが、有効な抗生物質により歴史的な大流行はもうなさそう
  • ペストに限らず流行病の多くは神の意思、あるいは神託として解釈された歴史がある。神学的立場と医学的立場からの対立が見られる所以

また、バッタの大量発生が間接的にペストの流行に関連しているなど、興味深い話やデータなどもありました。

こういった小説との関連本もあわせて読んでみると、より作品の深みを味わえるような気がします。

ペスト大流行

¥836

ペスト大流行 ヨーロッパ中世の崩壊
村上陽一郎

かつてペストの大流行は三千万の人命を奪った。医学から神学まで、社会を揺るがす大パニックの実態。

に投稿

【変身】朝起きたら毒虫になっていた悲しい男の話

カフカの代表作となる中編小説。カミュの「ペスト」同様に実存主義文学かつ不条理文学といえます。

朝、目を覚ますと俺は虫になっていたという始まりは衝撃的です。

Franz Kafka

ユダヤ人の商家としてプラハで生まれ、法学を修めた後、役人として勤めながら執筆活動。人間存在の不条理を主題とするシュルレアリスム風の作品群を残した実存主義文学の先駆者。

あらすじ

ある朝、グレーゴルが目をさますと自分が巨大な毒虫になっていました。鎧のような堅い背、褐色の腹、たくさんの足、ねばねばした分泌液。

まだ夢の中ではと思ってもうひと眠りしようとしても、慣れない虫の体のせいでうまく眠りにつけません。

こんな異常事態でありながらグレーゴルが考えていたことは、外交販売員としての仕事の苦労のことでした。すでに汽車に乗る時間を逃してしまい、仕事に遅刻することが確定しています。

時間に心配した母と父が起こしに来るがうまく返事ができません。相手の言語は解るが、こちらから発声して伝えることができないのです。

グレーゴルは日ごろの習慣により、部屋の戸締まりはきちんとしていたので、家族が様子を見に来てもとりあえず部屋にこもってやりすごしていました。

虫になった体でどうにかベッドから起き上がり、仕事に向かう支度をしなければ。

ついに職場の支配人が訪ねてきたので「体調が悪い」と適当な問答をして場をしのごうとするが、ついに両親と支配人たちが鍵屋を呼んでこじあけようとします。

なんとか自力で扉をあけて姿を表すと、母は絶句、父は臨戦態勢、支配人は恐怖のあまり逃げ出してしまいます。支配人に状況を取り繕ってもらうために、グレーゴルは追いすがろうとするが、その恰好が襲おうとしているかのように勘違いされました。父が棒でグレーゴルを追い立て、虫の姿で自室に引きかえすしかありませんでした。

今後もこのような誤解が生じ得るので、うかつに行動できません。そうしてグレーゴルの自室でのひきこもり生活が続きます。

グレーゴルは虫であることに順応し、家での居場所を失い、人に傷つけられていき…最後にグレーゴルがとった選択とは――。

書評

まずとにかくシュールな設定が目を引きます。ベッドから起き上がるだけでも相当な時間がかかり、そんな状況にグレーゴルは自分でもおかしくなって笑っちゃいます。

そして虫になったまま、仕事に行かねばと焦っている点。どうしてこの状況を素直に受け入れているのか、もっと気にすることがあるだろうにと思って仕方ないですね。

この本を読み解いていくと、虫になったこと、それ自体には意味を持たせていません。だから最後まで虫になった理由も何も説明がなく、その状況が当たり前かのように淡々と進行していきます。

そして個人的にはグレーゴルの健気な性格に少し心を痛めます。こんな不条理に見舞われても、仕事のこと、家族のこと、そしてお金のことなど、彼は常に他者のためを想っていました。両親の借金を肩代わりしながら、やりたくない仕事を続け、広い家に住まわせている孝行ぶり。妹の音楽大学のための学資まで工面していました。

それが虫になってしまったばかりに、家族に気を使って怯えながら生活し、人間としての尊厳は急速に失われていく。逆に虫として扱われることに慣れていき、自尊心なんてあったもんじゃないでしょう。

彼の世話役を買っていた妹の心情も複雑です。慕っていた兄が突如虫になり、家族の中で自分しか世話をしない。最初はそんな微妙な気持ちで世話をしていたのが、次第にグレーゴルを虫を飼っているかのような対象として捉えだす。そんな妹の狂気のようなものが見え隠れします。

虫の姿について

このグレーゴルが『なんの虫』になったか、これはあらゆる議論がありますが、基本的には特定の虫を想定していないようです。作中でもグレーゴルは極力他人に自分の姿を見せないようにしているので、客観的な彼の姿を表している描写はありません。

グレーゴル自身の動きからさっするにムカデか、ゴキブリか、コガネムシなどいくつかの憶測はありますが、具体的な言及はされていません。確かなのは硬い外殻があること、毒があること、粘液を分泌することなどですね。

作者のカフカ自身、作品としても虫の姿を見せて読者にイメージを固定化させるのは避けたかったようです。その根拠に彼は、扉絵や挿絵に絶対に虫の姿を描かないよう要求していました。

一説によると虫の姿を固定化させない理由に、読者に想像を拡大できるようにしてるのではと思われます。

例えば、もし変身していない前提で状況だけを整理すると、グレーゴルは家族を養いながらしたくもない仕事を続ける重圧からノイローゼになった、とも捉えられます。虫になったか否かだけを取り除けば現実にあり得る話で、まるでグレーゴルにふりかかった事故のように思えます。なぜ虫になったのかといった問いは一切なく、誰も気にせず、それこそふいに日常を襲う不条理性を描いているようです。

それでも生きていかなければならない、ここに本作の実存主義的な意図が見えます。

実存主義と不条理

虫になったことが事故だと前述しましたが、これもまた現実に置き換えられます。

例えば不慮の火災で顔を火傷して醜い姿になったとする。この容姿に対する不条理な事故という点において、虫になろうが、顔を火傷しようが、その原因や本質を追求しても仕方ない。事実は事実とただ受け入れて今を生きるしかありません。

これが実存主義。

実存は存在そのもの、本質はその存在が作り上げる目的や意義だが、起きた事故に目的や意義なんてありません。

これらの解釈を広げていくと、人間というのは本質をもたずにこの世に産み落とされるものだと思えます。本は知識を与えるために書かれるし、時計は正しい時間を刻むために生産されます。人間もなにか運命や使命に定められていると思われるでしょうか。しかし人間は自分の未来を選択する能力があります。

「何のために生まれてきたのか分からない」なんて悩みは多いですが、本質を伴わないまま右往左往しながら生きていくから、誰もが常に不安をかかえているのです。逆に言えば何にも縛られない自由であるということ。

人生において常につきまとう不安から逃れるために目的や意味を求めるのではなく、自身の自由な意志と選択をもってして主体的に生きるのです。

当然その自由には責任も伴うが、だから生きるのは楽しい。そう哲学者のサルトルは言っています。

この実存主義的な思想で、不条理に抵抗していくさまを文学に落とし込んだのがカフカの変身です。

変身

¥539

変身
フランツ・カフカ
高橋義孝 (訳)

事実のみを冷静につたえる、まるでレポートのような文体が読者に与えた衝撃は、様ざまな解釈を呼び起こした。海外文学最高傑作のひとつ。