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【蛇を踏む】踏んだ蛇が女に化けて家に居たので一緒に住んでみた

藪で、蛇を踏むと「踏まれたので仕方ありません」と声がして、蛇は女になりまし。「あなたのお母さんよ」と、部屋で料理を作って待っていました…。若い女性の自立と孤独を描いた芥川賞受賞作。

軽く読み切れそうな薄い文庫本をと思って手に取った小説でしたが、思いのほか内容が難しくて読むのに苦戦しました。

よくわからないけどね、しょわなくていいものをわざわざしょうことはないでしょ

蛇を踏む コスガ
川上弘美

1996年「蛇を踏む」で第115回芥川賞受賞。その他数々の文学賞を受賞し、その功績から紫綬褒章を受章。芥川賞、谷崎潤一郎賞の選考委員をつとめる。

あらすじ

職場の数珠屋「カナカナ堂」へ向かう途中、公園で蛇を踏んでしまい、その蛇は「踏まれたらおしまいですね」と言い、人間の姿に化けてひわ子の家の方角へ消えていきました。

ひわ子はコスガと一緒に数珠を納品しに甲府のお寺へ行きます。そこで住職が最近蛇が増えてると世間話をしたもので、ひわ子はコスガに蛇を踏んだ話を聞かせました。

部屋に帰ると昼間の蛇が50歳くらいの女に化けて夕飯を作っています。蛇はヒワ子の好きなご飯も、使うべき食器も、ビールにつぎ足されるのが嫌いなことも全て把握しているのです。

蛇にあなたは何者なのかと尋ねると「ヒワ子ちゃんのお母さんよ」と返答。心配になって本当の母である静岡の実家に電話をかけてもいつも通りのやり取りがあっただけで、母と名乗る蛇が何者なのかはわからずじまいでした。

翌日カナカナ堂に出勤するとコスガさんに蛇は追い出しなさいよと忠告されます。

蛇と共に過ごす三日目の晩、食事で気が緩む前に開口一番に蛇の存在を追求しました。しかし何度聞いても蛇の返答は「あなたのお母さんでしょう」と一点張り。

そうして蛇が来てから二週間が過ぎたころ、コスガさんと喫茶店で向かい合い再び蛇のことを聞かれました。そして彼の口からうちにも20年前から蛇が居着いてると告白されます。それはコスガの妻ニシ子についてきた蛇で、ニシ子の叔母だと名乗って最初に追い出せなくなったうちに20年も経っていました。

そんな蛇との共生を嬉々として受け入れてしまってるニシ子のことがコスガは怖いと漏らすのです。

書評

蛇を踏んだ描写や化ける様子など生々しい書き方が特徴的でした。

部屋じゅうに蛇の気配が充満していた。

引出しを開けるとノートやペンの間から小さな蛇が何匹も這いだした。這いだして私の腕から首をのぼり耳の中に入ってくる。痛くはないのだが、外耳道に入り込んだ途端に蛇たちは液体に変わってそのまま奥に流れ込む。冷たい。

まだ入り込んでいない蛇を阻止しようとして首を強く左右に振った。振ると、耳の奥で水に変わった蛇が粘稠性を増しながら内示に向かう。ねばねばとした水が三半規管のあたりを満たす。

蛇を踏む

本書から引用しましたが、文章でありながらなまめかしく不気味に想像させる力を感じます。その想像力を助ける確かな文章力が、さらに世界観全体を不穏に作り上げているような気がするのです。

特にニシ子が蛇に憑かれているのを知ってから、彼女の様子がおかしくなってくる様子が怖いです。

主人公のヒワ子は不器用な性格で、付き合い下手なのがうかがえます。前職は教師として生徒に余計な気をまわして自ら消耗して退職したこと、住職の話を聞いてるとそばを食べるタイミングを失うところ、コーヒーはニシ子さんじゃないと淹れてはいけないと思い込むところ。このどうしようもなく世渡りが下手なところが、蛇につけいれられてるようにも見えてしまいます。とても隙だらけに思えてしまうんですね。

一方で女に化けた蛇が家に住み着いてる事実をすんなり受け入れてるのが不思議。不器用な生き様とは対照的な肝っ玉を見せられているようですが、カフカの「変身」のような実存主義的な文学スタイルとも捉えられそうです。

そして蛇の世界とはなにか。個人的には安楽の世界のようなイメージを抱いています。

不器用で周囲との付き合いが難しいヒワ子、親とも疎遠とは言わぬまでも仲が良いわけでもない。対人関係における適切な距離感をつかめないヒワ子にとって、彼女が蛇に感じた「壁を感じない親密さ」はまさに願ってもないものなのかもしれません。

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【100万分の1回のねこ】13名の豪華作家陣によるトリビュート短編集

絵本『百万回生きたねこ』をモチーフにしたトリビュート短編集。

子どもの頃に誰もが読んだであろう名作絵本によせて「100万」や「ねこ」といったキーワードをもとに物語が紡がれています。

アンソロジー

江國香織、岩瀬成子、くどうなおこ、井上荒野、角田光代、町田康、今江祥智、唯野未歩子、山田詠美、綿矢りさ、川上弘美、広瀬弦、谷川俊太郎、全13名の作家による短編集。

あらすじ

本書から町田康「100万円もらった男」のあらすじを紹介します。話が分かりやすく、面白みがあって、教訓もあるので、誰にとってもおすすめの短編です。

貧窮したギタリスト

あるギター弾きの男が、金がなく腹を空かせていました。

ギターの腕は評判でしたが、劇場のマネージャーに嫌われていたので、仕事をもらえずずっと貧乏生活をしています。なんとか食いつないでいたが、とうとう一文無しに。家賃は滞納してるし、ギターもとうに売ってしまった。

突然ケータイが鳴ったものだから借金の返済連絡かと思ったが、知らない男から仕事の連絡でした。

100万円で才能を売る

大八っつぁんと名乗ったその男の要件は、ギターの才能を買いたいとのことでした。

ギターの腕には覚えがあったので、ついに自分の才能が買われるとき、つまり認められる時が来たと喜んで100万円で売ります。当然男は才能を買われたのは自らの実力が評価された、という風に受け取っていました。

男の手元には現金で100万円があって、喫茶店で大八っつぁんの分も支払いを済ませて99万9千円がある。

さっそく空腹を満たすために普段行けない高級焼肉店へ行き、借金していた音楽仲間に金を返し、たまっていた家賃を払い、以前売ったギターを買い戻しました。

そこで男は異変に気が付きます。買い戻したギターがどうも以前のようにうまく弾けず感覚が鈍っているようです。

その後も音楽チケットを買い、風俗に行き、珍妙な帽子を買ったり、やたらと飯を食い続けて、気が付いたら口座の残高は半分ほどの50万円に。

男には3日間のライブ公演の仕事がありましたが、ギターを弾いた時の違和感が表れてうまく演奏ができませんでした。仲間も調子が悪かったんだと励ましてくれていたが、2日目3日目も公演は最悪の結果に。どうやら腕が鈍ったのは気のせいではなさそうです。

ギターが弾けなくなり、彼はぼったくりバーで酒を煽るようになりました。1月半経ったころには残高は25万円に。仕事は前以上にうまくいかなくなったから、お金はみるみる減っていくばかり。

懲りずにバーへ行くと、とある中年の男が話しかけてきました。それは1月半前に喫茶店で才能を売り渡したときに、他の席に座って様子をうかがっていた男でした。中年の男はスマホであるミュージシャンの画像を見せてきました。それは最近かなり流行っている楽曲で、街中どこでも耳にする音楽ですが、そのアーティストこそあの喫茶店で才能を売り渡した大八っつぁんだったのです。

男はたしかに才能を買われたのだが、それはまさにその言葉の通り、才能そのものが買われてしまったのでした。たった100万円で大切な才能を売ってしまうなんて惜しいことをしたと後悔しても手遅れです。

彼は本来自分のものであったはずの才能を、収穫する前に畑ごと売り払ってしまったようなもの。買い戻そうったって、これからも収穫のあがる畑を誰も手放すわけがありません。

才能の畑をなくした彼にはもはや不毛の荒野しか残っていません。それでも種を蒔き、水をやって、一所懸命に生きていくしかないのでした。

まだ、わからないのか。それしかないからだよ。それだって、自分の荒野である以上、売ったら後悔するんだよ。いいかげんにわかれ。

“100万円もらった男” 町田康

書評

この短編集の趣旨は、絵本『100万回生きたねこ』と佐野洋子さんに愛をこめて。この素晴らしい絵本を礼讃するトリビュート短編集となっています。

絵本の内容を知らなくても十分楽しめますが、江國香織さんや山田詠美さんの短編は知っていた方がより楽しめるかと思います。

私はいまさら絵本を買うのもなと思って、kindleで電子書籍版を購入しました。もしお子さんがいる家庭なら紙の絵本を強く勧めます。
100万回生きたねこ(kindle電子書籍版)

あらすじ紹介した町田康さんの「百万円もらった男」は、教訓たっぷりの内容で、最後の結論まで心に刺さる名言たっぷりでした。何かの才能があろうがなかろうが、これからの人生を強く生きていく勇気をもらえる話です。


もう一つ、個人的に面白かった話が川上弘美さんの「幕間」でした。これ、わかる人にはわかるのですが、ドラクエⅤをオマージュした話になっているんですね。

私もドラクエは大好きで、もちろんドラクエ5もプレイしていました。シリーズ屈指のストーリーが評価されているゲームなので、印象に残っている人も多いでしょう。

人間っていうのは、欲張りなものだと、おれは思う。ただ生きているだけでは、足りないのだ。生きることを楽しみ、生きることを嘆き、生きることを疑う。

“幕間” 川上弘美

そんなドラクエⅤの世界にバグで迷い込んだ猫の話。猫から見た人間の愚かな生き様を描いています。

百万回生きたねこ

1977年に刊行されてからずっと読み継がれているロングセラーの絵本。

王様、泥棒、孤独なおばあさん、どの飼い主も好きになれなかったトラ猫が100万回死んで100万回生きるお話です。

そんなトラ猫がある日、誰の猫でもない野良猫として生まれ変わり、一匹の白く美しい猫に出会います。何回も生きることを繰り返して、最後にはもう生まれ変わらなくてもいいと思えるような最愛の相手に出会って死ぬこと。

『100万分の1回のねこ』は、この内容を下地にしてるような話もあれば、全然関係ないけど絵本の趣旨やタイトルを絡ませているような話もありました。人から見た猫、猫から見た人、タイトル通り100万回生きた猫のその中の1つの人生を取り上げているのでしょう。

登場する猫はだいたいどの話においても、奔放で、自分勝手なところがあったり、気分屋なところがあったり。猫の猫らしさがそれぞれの作家によって表現されています。

100万分の1回のねこ

¥737

100万分の1回のねこ
アンソロジー

佐野洋子『100万回生きたねこ』への、13人の作家によるトリビュート短篇集。