
少しボリュームが軽めの小説を読みたいなと思っていたころ、芥川賞を受賞して話題になっていた本書を手に取りました。単行本でもかならライトなボリュームで、サクッと読み切れそうと思っていました。
しかし読んでみて衝撃。社会へ投げかける問いや、障害者ならではの視点による鋭い意見など、この短い物語には重苦しいテーマがたっぷりつめこまれていました。
あらすじ
筋疾患先天性ミオパチーによる症候性側彎症。井沢釈華の病気で、彼女にとってはグループホームの十畳ほどの居室と、キッチン、トイレ、バスルームが現実的世界のすべてでした。
ヘルパーやケアマネなど限られた人しか関りもなく、彼女の世界はかなり限定的なものである。
そんな世界を押し広げてくれるのがインターネットでした。TwitterなどのSNSを駆使して、グループホームの一室にいながらも世界とつながっている感覚です。
井沢釈華にはグループホームを含め数棟のマンションの家賃収入があり、数億単位の現金資産も相続しており金には困りません。
ホームの雰囲気はそれなりに良く、ヘルパーやほかの利用者との交流も最低限ありました。ただ病気のことを除いては不自由のない生活といえるでしょう。
ある日、井沢がVRゴーグルを共有スペースに備品として寄付する話をLINEに投稿。身体が不自由な我々だから、せめて景色だけでもどこにでもいけるのはいいねという話があがっていたので、それに対する気遣いでした。
ヘルパーの田中は井沢に対して「弱者が無理しなくてもいいんじゃないですか。金持ってるからって」と皮肉を込めて返事。田中は自らのコンプレックスをこじらせているような、いわゆる弱者男性であることを自認していました。それはコミュニケーション能力か、経済的にか、男としてのジェンダー的にかは分からないが。低身長であること、根暗な性格であること、介護という一般的に低賃金労働に従事していることなど、いくらでも該当します。
そんな攻撃的なやり取りがあった直後、マネージャーから連絡。井沢釈華の入浴介助の日に女性ヘルパーがPCR陽性だったため、田中が担当することになりました。
入浴介助を終えると田中が唐突に井沢のTwitterアカウントのつぶやきについて言及しました。それは井沢釈華がTwitterで呟いた「妊娠して中絶したい」という彼女の歪んだ願望への蔑みでした。
井沢は「田中さんにもどうしても欲しいものやしたいことくらいあるでしょう」と答えると「井沢さんが持っているくらいの財産が欲しい」と返答。
田中ヘルパーにTwitterアカウントがばれ、井沢釈華の性癖や歪んだ願望を含めた人間性を侮辱されたこと。弱者男性であるコンプレックスの八つ当たりのはけ口にされたのも受け入れながら、後日彼女は田中にある取引を持ち掛けます。
「いくら欲しいのですか」と尋ねると田中は「1億」と場当たり的な金額をふっかけてくるが、それくらい井沢釈華にとってはかわいい金額でした。
そして田中の健常な身体に価値をつけて1センチ100万円分の1億5500万円で取引を打診。田中は承諾し井沢は小切手にサインをします。そして最終的にとった二人の行動と決断とは――。
書評
触れにくい話題である障害者の性やSEXを正面から扱ってるのが衝撃でした。しかも軽い下ネタ程度ではなく、命の重み、性の在りようなどかなりセンシティブな内容です。
私自身、障害者のグループホームで5年ほど働いていたことがありました。そして、そこで生活する利用者たちの性事情というのも様々あったものです。そういった点において、未だに納得のいく向き合い方というのは分かりません。
そして障害者である当事者視点から世間への怒りや心情吐露が印象的でした。主人公の持つ身体的な歪み、ないしは歪んだ願望が社会と相入れないことを強く非難されています。
読んでいて自分を健常者として前提に立っていると、まるで責められているようで辛くなります。それだけ迫真の主張が込められているのでしょう。
また、Netflixやpairs、ヤフコメ、スパダリ、ナーロッパなど、アプリケーションや現代的スラングがよく出てくるのも特徴的でした。コロナなど現実の世情も絡めています。
特にTwitterが重要な設定で、井沢はSNSで発言して炎上しそうなものはとりあえずEvernoteに吐き出して主張を寝かせています。反射的に思ったことを何でも発言していると、思わぬところで炎上しかねないですからね。
中絶がしてみたい、私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう。
井沢釈華
この発言がターニングポイントになっていました。
歪んだ願望や死生観を持っているため、そこだけ切り取るとやばい人に見えますが、思っていることと現実を釈華は丁寧に棲み分けています。
田中にいくら嫌味を言われても冷静に大人な対応で返していますし、基本的には常識人で、できる限りで社会に貢献しようともしていました。
それだけに彼女の堕胎願望とういものを理解するのが難しいところ。
ただ「気持ち悪い」と一蹴して井沢釈華を、ひいてはこの本を否定してしまうと、それこそが障害者との相容れない様相を読者の中に生み出してしまいかねません。
井沢釈華の願望や社会に対する怒りをすくいあげて、丁寧に読んでいくとこの本の見方も変わりそうです。
ハンチバックとは
タイトルの『ハンチバック』とは『せむし』のことで、背骨が曲がっている状態を表す差別用語です。少し古い小説などを読んでいると度々見かけることもありましたが、最近では聞きなれないですね。
ここから主人公、井沢釈華の歪んだ願望や人物像としての歪みを表現しています。
生むことはできずとも、生殖機能はあるのだから堕ろすところまでは健常な人たちのまねごとのように、その背中に追い付くことができるだろう。
井沢釈華
歪みを抱えながらも、そのまっすぐな背中を渇望してるのが伺えます。
健常者優位主義(マチズモ)
世間ではこの本の「読書のマチズモの指摘」についてもよく取り上げられていました。「読書」という行為そのものが健常者優位主義(マチズモ)に働いているのです。
井沢釈華にとって厚みのあるページを抑えながら読む行為は背骨に負荷をかけます。通常誰もが普通に可能な活動が負担になること、だから本作では井沢釈華が紙の本を強く憎んでいます。
紙の匂い、ページをめくる感触、残りのページ数からの緊張感など、そんなものは健常者の呑気な言い回しだと主張されていました。電子書籍が一般的な現代でも高度な専門書やマイナーな本などはまだまだ電子化されていませんからね。
作者もインタビューで読書文化のマチズモを指摘して、読書にとどまらず社会のいたるところで障害者がいないことになって設計されていると話されていました。
ちなみに私は本は紙で読むほうが好きです。そして自分自身これまで社会生活上で不都合を感じない限り、それ以上想像力を働かせようとは思っていませんでした。そりゃそうです、普通に本を読むことが普通ですから。
しかし事情を知ったならば、そこに想像力を広げて世の中を見る視座を高めるために、こういった指摘を受け入れることは大切です。
最後のパート
「ゴグよ、終わりの日にわたしはあなたを、わが国に攻めきたらせ、あなたをとおして、わたしの聖なることを諸国民の目の前にあらわして、彼らにわたしを知らせる。」
本書の最期、語り手が替わって、早稲田大学政治経済学部の紗花という源氏名で風俗嬢をしている女の子が登場。さらに謎の聖書からの引用文。
設定が一部冒頭のコタツ記事から一致するので、井沢釈華による創作だと推察されます。
このパートは意図が分かりにくく、文学賞を受賞する選評の際に議論となったようですね。私もよく分からず、その部分なくても良かったのではと思っていました。
聖書の解釈が必要な部分なので、このあたりをどう読んでいくか、より考えさせられるところですね。
市川沙央⇄荒井裕樹 往復書簡「世界にとっての異物になってやりたい」|文學界note
もともとライトノベルを書いていたこともあり、本書も意図の解釈を抜きにすれば文章自体とても読みやすいです。
作者が本作を通して宗教や過去の事件を絡めた文学性、障害者、ジェンダー、命をとりあげた倫理観など。幾層にも考え積み重ねられた思考の断片を見せられた気がします。
ぜひ、こちらのnote記事による書簡も読んでいただきたいです。