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【ジキルとハイド】二重人格の代名詞となった怪奇小説

人間に内在する善と悪の二面性を捉えた二重人格の代名詞となった名作。ジキル博士が純粋な悪に心を染めてハイドに成り変わること、その悪への誘惑に抗いきれなかった男の悲劇。

スティーブンソン

1883年に『宝島』1886年に『ジキルとハイド』を刊行。コナン・ドイル、プルースト、ヘミングウェイ、夏目漱石など同時期~後世に活躍した作家から高く評価された。

あらすじ

精悍な弁護士アタスンは友人から噂話をききました。ある小男と少女が十字路で鉢合わせてぶつかった際に、小男が少女を踏みつけてその場を去った事件。小男はすぐさま周囲の人に連れ戻されたが、示談金として100ポンドを支払ってことを済ませようとします。しかしその100ポンドの小切手がロンドンでも高名な人物ジキル博士の名で支払われたのが問題でした。

少女を踏みつけにした邪悪な小男はハイドと名乗ったが、高名なジキル博士といったいどんな関係があるのか。

アタスンはかねてよりジキル博士から遺言状を預かっており、博士が死んだら財産のすべてを友人のエドワード・ハイドに相続するという内容だったことを思い出します。

後日ジキル博士にハイドの件についてアタスンが尋ねるが、ジキルはその件について深くは触れずにかわされてしまいます。

またある日、街で国会議員がハイドに暴行を受け殺害される事件が発生。そのままハイドは一切姿をくらましてしまいました。

アタスンが再度ジキルのもとを訪ねて極悪人ハイドとの関係を断つように進言すると、ジキルはそれを聞き入れたものの外界との接触を拒んで家にこもる隠遁生活となります。その様子を見てアタスンはジキル博士に対してますます不安と心配を募らせました。

ハイドが完全に消息を絶ち、ジキルが隠遁生活を始めてしばらくたったころ。ジキル博士の屋敷の使用人が、博士の様子がおかしいと訪ねてきました。その夜、アタスンがジキル博士のもとへ行くと、すでに事件が起きており…。

ロンドンを震撼させた悪人ハイド、彼を相続人にしようとするジキル博士の謎、そしてジキル博士の重大な秘密を知って亡くなった人物。これらのすべてが繋がる最後の夜が始まります――。

書評

本編は140ページほどの中編小説、古い本にしては内容が褪せない設定で、登場人物も少ないので非常に読みやすい本でした。

弁護士であるアタスンの視点でミステリー調に進行していきます。ミステリーとはいえ読者視点では、はじめからジキルとハイドが同一人物であることが分かり切っているので、ジキルの内心を探りながら事件の全容を明らかにしていく過程に物語の面白さがあります。

事件の全容が明らかとなる最後の夜の後、ジキル博士が遺書として残した手記による告白という二部構成です。このジキル博士の告白は、たった140ページの短い物語の4分の1も占めており、ジキルの切迫した思いや葛藤が鮮明に描かれています。

彼の手記の中で最も印象的だったセリフに、その苦悩とこの物語の本質が凝縮されていました。

「人間が抱えるふたつの人格を分離して考えるのが愉しみだった。”悪”のほうは、清廉潔白な双子のかたわれの理想や呵責の念から解放され、堂々とわが道を突き進むことができるのではないか。”善”のほうは、すじちがいの”悪”がもたらす恥辱や後悔にさらされることなく、喜びの糧である善行を繰り返し、迷うことなく高潔の道を進むことができるのではないか。この相容れない二本の薪がひとつの束にくくりつけられていることこそ、人類の呪いなのではないか。」

114p ヘンリー・ジキルが語る事件の全容 ジキル博士の手記

ハイドは紛れもなく悪だが、ジキルはあくまでも理性をもって悪を抑制した善の仮面をかぶった普通の人間です。人間はこの善と悪の二面性を合わせ持ってその人格を形成していますが、これがどちらかに振り切れることはないために相反する性質が精神内においてストレスを生むのでしょう。それを科学の力で分断して純粋な悪になりきれる快感に酔いしれてしまったのが、天才であるジキル博士の悲劇でした。

ちなみにジキルとハイドにはモデルがあります。18世紀、高級家具職人組合長かつエディンバラ市議会議員でありながら、裏ではスリルを求めてギャンブルの種銭稼ぎに夜盗をはたらく『ウィリアム・ブロディ』です。彼は家具師として自身で初めてエディンバラに絞首台を作り、初めてその刑具の受刑者になった皮肉な話。この顛末までもが本作のジキルとハイドの最期に重なるところがあります。

ジキルとハイド

¥539

ジキルとハイド
ロバート・L・スティーヴンソン
田口俊樹(訳)

人間の心に潜む善と悪の葛藤を描き、二重人格の代名詞としても名高い怪奇小説。

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【ボッコちゃん】どんなに読書が苦手でもショートショートなら読めるでしょ!

星新一ショートショートのシリーズ作第1冊め。芸人のカズレーザーが帯になっていたのをきっかけに、なんとなく読み始めました。

ショートショートというジャンルを開拓され、これが非常に読みやすく、なんとミリオンセラー文庫が18点もあるようです。普段本を読まない人でも気軽ん手に取りやすいかと思います。

星新一

1926年9月6日、東京生まれ。本名は星親一。1957年にSF「セキストラ」でデビュー。 短編よりさらに短いショートショートを得意とし、代表作に「ボッコちゃん」「おーい でてこーい」「処刑」「午後の恐竜」など。日本SF作家クラブ初代会長に就任。1983年にショートショート1001編を達成。

あらすじ

本書では50本のショートショートが収録されていますが、その中から表題作「ボッコちゃん」を取り上げます。

バーのマスターが趣味で作った美しいロボット「ボッコちゃん」

見た目は人間そっくりだが、できるのは簡単な受け答えと、酒を飲む動作だけ。客は新しい女の子が入ったと思うが、まともな話し相手にはなりません。

ロボットなのでお酒はいくらでも飲めます。注文はたくさんいれてもらえるし、さらにロボットのタンクから回収したお酒を提供して再利用できるからマスターにとっては良い商売です。

しかしボッコちゃんに本気で熱をあげる青年があらわれ、彼がお店で問題を起こします――。

書評

この本はだいたい1編あたり5~6ページ程度の物語が50編収録されています。本1冊あたりでは300ページを超えるものの、短く区切りがつくのでどんなに集中力がなくても読み進められるでしょう。

表題作のボッコちゃんは、たった6ページの中に流れるような展開と綺麗な落ちをつけています。話を短くまとめるためにも無駄がなく、非常に洗練された印象を受けました。星新一の1000を超える作品の中でも代表的なものであることも頷けます。

50編どの話もユーモアや風刺のきいた、たった数ページのショートショートとは思えない読みごたえがあります。ミステリー、寓話、SF、ファンタジー、童話などバラエティにも富んでいて、飽きることなくサクサクと最後まで読み切れるでしょう。

ボッコちゃん

¥781

ボッコちゃん
星新一

著者が傑作50編を自選。SF作家・星新一のシリーズ第1作。

 

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【ヴェニスの商人】友人に1億貸して死にかけた男の人肉裁判大逆転劇

シェイクスピアの喜劇のひとつ「ヴェニスの商人」を読みました。とくに四大悲劇が有名とされており「リア王」や「ハムレット」は読んだことありましたが、喜劇を読むのは初めてです。

ウィリアム・シェイクスピア

イングランドの劇作家・詩人。生涯を通して37編の史劇、喜劇、悲劇を創作。47歳で引退して余生を過ごした。

あらすじ

舞台は水の都イタリアのヴェニス(ヴェネツィア)と、ベルモント(架空の都市)における貿易商と金貸業の2人を巡る物語。

話の大筋は主に4つです。

  • 人肉裁判
  • 金銀鉛の箱選び
  • ジェシカの駆け落ち
  • 指輪の紛失

バサーニオーはベルモントの貴婦人ポーシャに求婚するため、各国の王様にも対抗できるだけの財産が必要でした。

貿易商のアントーニオーは親友であるバサーニオーから、その求婚のためのお金を貸してほしいと頼まれるが、彼の財産のほとんどは航海中の船にあって貸せるだけの金はありません。親友の頼みとあらば、強欲で高利貸しといわれるユダヤ人、シャイロックに頼るほかありませんでした。

シャイロックがアントーニオーに提示した条件は、3000ダカットを期間3か月で返せなかった場合、体の肉を1ポンド切り取るというもの。実質命と引き換えの契約ですが、アントーニオーは2か月のうちには船が戻り借りた金の9倍はあると見立てていたので承諾します。

一方でバサーニオーはアントーニオーが工面してくれた大金で求婚前にみんなでパーティーを決行。その後、グラシャーノーと共にポーシャのいるベルモントへと向かいます。

ベルモントの貴婦人ポーシャは亡き父の遺志に沿って夫を選びます。それは求婚者に金、銀、鉛の3つの箱から1つ正解を選んでもらうもので、ポーシャの意思によって好きな人を選ぶことも、嫌いな人を断ることもできません。逆に求婚者は箱選びに挑戦したら将来どんな女にも求婚しないこと、選んだ箱は他言無用で間違ったら黙ってただちに引き上げることが条件です。

シャイロックの娘ジェシカは恋人と駆け落ちするべく、バサーニオーのパーティーに乗じて家の財産を持ち出していました。シャイロックは娘を必死に探し回り躍起になっており、その上アントーニオーの商船が難破した噂を聞きつけます。多くの財産を失ってしまう危機だが、シャイロックにとっては金が返ってこなくても、商売の邪魔になるアントーニオーの命さえなくなれば儲けもの。

ヴェニスの大商人ともいわれたアントーニオーは友人のためにここで死ぬことを覚悟していたが裁判は意外な方向へ――。

書評

シェイクスピアのような古典的な作品となると、なんとなく敬遠してしまいそうになりますが、この戯曲はとても読みやすいです。そもそも戯曲は人物のセリフだけで構成され、一部傍白で語られるので、シンプルで読みやすくなります。

しかし古い作品なので、時代背景や設定を知っておいたほうがより理解も深まるでしょう。まずこの当時におけるユダヤ人の立場を明確にします。

作中舞台はイタリアですがシェイクスピアはイギリスの作家です。イギリスではユダヤ人は排斥対象とされており、実はシェイクスピア自身もユダヤ人を知らずにイメージだけでここまでのユダヤ排斥を作品に落とし込んだのではと言われています。

キリスト教では利子をとることがよくないこととされており、そのために金貸業で栄えたユダヤ人はイギリス人の反感を買い、迫害された後に国から追放され、イギリスからユダヤ人が姿を消す数百年の空白期間がありました。ただしユダヤ人は進んで金貸業を選んでいたのではなく、仕事がそれしかなかったという状況からの結果です。

つまり作中のキリスト教徒であるアントーニオーにとってシャイロックは忌避すべき対象で、シャイロックにとってはキリスト教徒であり商売の邪魔をしてくるアントーニオーは目の敵だったわけです。アントーニオーはシャイロックが誰かに金を貸すときに、自ら無利子で貸して教義に基づいてシャイロックの邪魔をしてました。このようなヴェニス全体の利息を下げるような行為がシャイロックにとっては許せず、これならば証文の額面を返済されるよりもアントーニオーがいなくなるほうが得だと考えていました。

ユダヤ人のシャイロックを最終的に追い詰めていくことから、作品全体を通して非常に反ユダヤ的であるとして裁判になったこともあるようです。また舞台上演では喜劇ではなく、シャイロックの立場を引き合いに悲劇として上演されることもしばしば。

ただしこの作品がユダヤ人を不当に扱いたかった意図はないと思われ、シャイロックがユダヤ人の怒りや憎しみを代弁してまくしたてる重要な場面も見られます。

ヴェニスの商人

¥528

ヴェニスの商人
ウィリアム・シェイクスピア
福田恆存(訳)

サスペンスとアイロニーに溢れる、圧巻の法廷シーン。時代を越えた傑作喜劇。

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【ハツカネズミと人間】アメリカの農場を渡り歩く非正規労働者の儚い夢と現実

読むのは2度目でしたが、初めて読んだときには気が付かなかった伏線や人物の心情を楽しめました。

ボリュームが中編程度と読みやすく、2023年に新装版文庫も出版されているので、これから海外文学を読んでみようというかたにもおすすめの一冊です。

ジョン・スタインベック

「怒りの葡萄」でピューリッツァー賞を受賞、1962年にノーベル賞を受賞。

あらすじ

アメリカのカリフォルニアを舞台に、ジョージとレニー、二人の渡り労働者と農場での人間模様を追った物語。

小柄だが頭がきれて口がよく回るジョージと、体はでかいが幼児レベルの知能しかないレニー、対極にある2人がペアを組んで農場を転々と渡りあるきます。2人に友情があるのは確かだが、どこか互いに依存してる部分があったり、不安定な関係であることが感じられて落ち着きません。

農場のリーダー格である気立ての良いスリム、横暴な親方の息子カーリーと奔放な妻、余生が迫るキャンディ老人など。農場内での人間模様が鮮やかなヒューマン小説。

将来自分たちの農場を持つ夢を抱くジョージとレニーは、この農場である現実を目の当たりにします。

ジョージとレニー

ジョージとレニーは前に働いてた農場から追いやられるようにして、次の農場を目指して近くの河畔まできていました。夕暮れだったのでその日は農場より少し手前で野宿します。

夕食の準備中にレニーはポケットにハツカネズミの死骸をしのばせて手でもてあそんでいます。レニーにとってはただ動物や素敵なものをかわいがりたいだけで、前の農場でも女の綺麗なドレスに触りたいだけだったが、女が身を引いても手を離さないからパニックになって、そのまま逃げるはめになりました。

新たな農場ではレニーのその大馬鹿がばれないように、ジョージは「親方には何をきかれても一言もしゃべるな」と釘をさしました。レニーはとにかく力と体力だけはあるのだから、黙って仕事ぶりだけを見てもらうという寸法です。

一晩明かして翌日の昼前に農場へ到着。老掃除夫キャンディに宿舎の案内を受けます。

二人は親方に労働カードを渡して今日から働く手続きを済ませるが、親方はジョージがレニーに喋らせないことを不審に思います。ジョージはレニーがラバの扱いも耕作機の操作もできるし、400ポンド(約181㎏)の俵もかつげる、利口じゃないから喋らないが働きっぷりは確かですよと、ジョージの機転と口上でなんとか切り抜けました。

その日の夜の飯場。キャンディ老人の犬が臭すぎると、ほかの労働者が追い出そうとせきたてます。老犬はどうせ先が長くないし、生きているだけでも辛そうなのだからいっそ楽にしてやるべきだと、拳銃で安楽死させるために犬が連れだされました。キャンディは納得できませんがそれを受け入れるしかありません。

飯場には犬を失って傷心のキャンディと、ジョージとレニーの3人しかいない。そのときレニーとジョージが将来自分たちの農場を持つ夢の話をしていたところ、キャンディが仲間に入れてほしいと嘆願してきます。そのかわりに土地を買う資金に貯金の350ドル出すと提案。ジョージとレニーは2人月末の給料合わせて100ドル入るから、小さな土地を買う夢の話も現実的になってきました。

ジョージの決断

ある日、黒人の馬屋係クルックスの部屋に迷い込んできたレニー。2人は彼の部屋でしばらく他愛のない話をしていました。

クルックスは黒人差別を受けていて農場では孤独だったし、自尊心が強い性格なので寡黙で他人とは距離をおく性格です。しかしレニーはどうせ馬鹿で何を話したところで忘れるからと、身の上話をしていたところ、カーリーの妻が部屋に入り込んできました。

カーリーの妻の訪問が発端となり、レニーは大きな事件を起こしてしまいます。困ったレニーはジョージとあらかじめ話していた「困ったことがあったら逃げ込む場所」を目指して姿を消します。

町から帰ってきた労働者たちがその事件を目の当たりにすると、ジョージはとある決断をくだします。

書評

農場内のそれぞれの人間性を引き出しながら、それだけで世界観を作り出している本書。さらに場所と時間が限られていて、木曜日の夕方~日曜日の夕方までの4日間で、場所は2人が訪れた農場とサリーナスという河畔のみに絞っています。しかもずっと農場にいるのに、仕事をしている描写は一切ない。仕事が終わった後の、労働者たちが飯場で賑やかにしている雰囲気だけで、作品全体の輪郭を作ってます。

一貫して外面描写に徹しているので、人物のこう思ったとかこう感じたといった主観的な内面描写はありません。そのため淡々とした筆致にはなりますが、ジョージとレニーの友情や夢への渇望など、農場で働く人々の人間模様が生彩に描かれています。

基本的には常にジョージとレニー、その周囲の人間の様子や会話だけを追ったヒューマニズムに徹した作品です。

ジョージにとっては馬鹿なレニーがいなければ気楽に働いて、稼いだ金をぱっと使って、また働きにでるという調子のよい暮らしができるのに、それでもレニーと一緒に居続けるのはなぜなのかが要になっています。

実はとくに重要なシーン、キャンディの老犬の臭いに迷惑していた労働者が犬を射殺するシーン。周りの労働者もキャンディに気を遣う素振りを見せますが、どうしようもない状況でした。銃を持って犬を連れだしてから、だいぶ間が経ってから銃声が響くのですが、明記されていないがたぶん犬は安楽死ではなく殴られたりしながら最期のとどめに撃たれています。

キャンディ老人は後に「あのイヌは自分で撃てばよかった、よそのやつに撃たせるんじゃなかった」とぼやくのが印象的。

あまり言及すると最後のネタバレになってしまうけど、この撃たれた老犬はレニーの暗喩で、レニーが引き起こす事件の顛末に非常に重要な意味を持たせてくれていると思われました。

また、本好きとして個人的に印象に残ったセリフ。

本なんて、つまらねえよ。人間には仲間が必要だ――そばにいる仲間が。

114p 黒人の馬屋係クルックス

差別を受けていた黒人クルックスだからこそのセリフで、ここでいう「仲間」というのもあらゆる意味をはらんでいます。人間が社会的生き物で、一人では生きていけないこと、そしてときにはその社会によって葬られてしまうこともあること。

最期まで読んでわかるこの話の切なさとやるせなさ、ジョージとレニーの不安定だけど確かな友情というのが、読者の胸をしめつけてきます。

ハツカネズミ

本作の題名「ハツカネズミと人間」はスコットランドの詩人ロバート・バーンズの詩「ハツカネズミに」からとられていて、この小説そのものを表しています。

ハツカネズミと人間の このうえもなき企ても

やがてのちには 狂いゆき

あとに残るはただ単に 悲しみそして苦しみで

約束のよろこび 消えはてぬ

ハツカネズミと人間

¥572

ハツカネズミと人間
ジョン・スタインベック
大浦暁生(訳)

『怒りの葡萄』でピューリッツァー賞を受賞した著者による中編。木曜日の夕方から日曜日の夕方まで、河畔と農場での会話と情景を切り取った戯曲的小説。

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【西の魔女が死んだ】繊細で感受性豊かな少女が上手な生き方を探る魔女修行

梨木果歩デビュー作にして代表作。数々の文学賞を受賞し200万部強の名作となった「西の魔女が死んだ」

植物をテーマに語るポッドキャストで紹介されていて、読んでみると植物の豊さや恵みを実感することになりました。

人一倍感受性が強い、中学1年生の主人公まいはある理由で学校に通えなくなります。その間、田舎のおばあちゃん、通称「西の魔女」のもとで、魔女修行の手ほどきをうけ、暮らしの中で少しずつ成長していく物語です。
※この本における魔女というのは、身体を癒す植物に対する知識や自然と共存する知恵に長けた人を魔女と呼ぶ歴史的観念。

梨木香歩

小説家、児童文学作家。「西の魔女が死んだ」で日本児童文学者協会新人賞、新美南吉児童文学賞、小学館文学賞を受賞。叙情性豊かな表現で幅広い読者を獲得している。

あらすじ

中学校にあがったばかりのまいは「あそこは私に苦痛を与える場でしかないの」といって登校拒否。

しばらく学校を休んで田舎のおばあちゃんの家で過ごす提案を受け、通称「西の魔女」のもとへ。家の裏の畑から野菜をとってきたり、鶏小屋の卵で朝食を食べたり、田舎の新鮮な空気と大好きなおばあちゃんのもとで豊かな暮らしが始まります。

まいが車から荷物を取りに庭に出ると、車をのぞくあやしい男と鉢会います。この男こそまいにとっての天敵ゲンジさん。挨拶を交わすが、初対面でいきなり高圧的な態度をとられ、学校を休んでることに対して嫌味を言われ、最悪の出会いとなってしまいます。

おばあちゃんがまいに、魔女を知っているかと尋ねました。まいはファンタジーの世界のほうきに乗った魔女ではない、現実の魔女について教えてもらいます。そして現実の魔女が備えていた特殊能力、おばあちゃんのおばあちゃんが際立っていたのは予知能力でした。そんなひいひいおばあちゃんの予知能力が開花したエピソードを聞くと、その話がずっと気になって自分も魔女の能力を持てるようになるか気になって仕方がありません。

こうしてまいの魔女修行が始まります。

はじめはスポーツ選手が体力をつけるように、魔女の奇跡や超能力を起こすには精神力を鍛えなければなりません。規則正しい生活を身につけて、自らの意思で自分を律していく力を養うこと。まいはおばあちゃんの家で生活リズムを整え、家事に参加して、勉強の時間割を作ります。

魔女の心得は「自分で決めること」それに尽きる、さらに上等な魔女になるには外からの刺激に動揺しないこと

ある日、いつものように鶏小屋に卵を取りに行くと鶏が何者かの動物に殺されていました。パニックになったまいは食欲をなくし、そのまま部屋で休みます。昼頃にはゲンジさんが訪れ、鶏小屋の壊れた金網を修繕する段取りに。

数日後にまいは修理代金を払うためにお金をゲンジさんに渡しにいきます。これも修行のひとつ。そう言い聞かせてあの嫌いなゲンジさんの家に行きました。しかしまたも心無い言葉を浴びせられ、怒りと屈辱にまみれて、心をかき乱されて帰ってきます。

おばあちゃんは心が怒りや憎しみなどに支配されることが、どれだけ人を疲れさせてしまうのかを諭して、ようやく落ち着きを取り戻します。

しかしまた別の日、まいが一部土地をもらったお気に入りの場所に行くと、そこから少し離れた場所でゲンジさんがスコップを持ってなにやら掘り返しています。ばつの悪そうな顔で「タケノコを掘っているんだ」と言いましたが、まいにとっては自分の神聖な場所を侵されたような気がしてならなりません。ゲンジさんのことになるといつも心を乱される。なぜおばあちゃんはあんな粗野で下品なゲンジさんの肩をもつのかわかりません。そうしてまいとおばあちゃんは言い合いになり、気まずい数日を送った後にまいはおばあちゃんの家を去り両親のもとへ帰りました。

書評

にんにくをバラの間に植えておくと、バラに虫がつきにくくなるし香りもよくなる。クサノオウは猛毒だけど、眼病に効く薬にもなる。こんな植物豆知識が読んでいて楽しい、緑豊かでどこかほっとさせる物語です。

まいの感受性が強すぎる性格、今でいうところ「繊細さん」とか「HSP」とか言われたりする人がいますね。何かしら生きづらさを抱えやすいタイプで、まいの母も「昔から扱いにくい子だった、生きていきにくいタイプの子よね」と電話口で話すところがあり、まいはそれをいつまでも覚えてます。

嫌なこと一つあると、その日のすべて何もかもが台無しにされたような気分。それこそ読む人の感受性によって、どれだけまいに同情できるか具合が変わってきます。私もそういった経験や感情はこれまでに幾度となく向き合ってきました。

逆にまいとは対照的な図太くて大胆な人物ゲンジさん。

実はゲンジさんは本当に嫌な人だったのか、という疑いが私の考察する彼の人間像です。雨が続いたあとの日にスコップでタケノコを掘っていたのは嘘で、まいの死んだおじいさんのために銀龍草を探していたのではなかろうか。ゲンジさんの豪胆で遠慮のない接し方は、彼なりの歩み寄りだったのではなかろうか。

上手な人付き合い、負担にならない感じ取り方。そんな人間の心の難しさを、まいの繊細な感受性を通して読者に伝えているようでした。

まいとおばあちゃんのつくったジャムは、黒にも近い、深い深い、透き通った赤だった。嘗めると甘酸っぱい、裏の林の草木の味がした。

48p

なにより上記のような、穏やかなおばあちゃんの家でつくる自家製食材や自然の恵みが美しいのです。それを文章にして物語に自然と溶け込ませる梨木果歩さんの筆力もとても素晴らしいですね。

軽い文体でスラスラ読みやすく、まいとおばあちゃんの会話、自然の情景、暮らしの知恵、魔女修行と称した生きるための心の持ちよう、そして主人公であるまいの成長。物語の内容、構成、読みやすさのすべてのバランスが良くて、大ヒットの名作となったのもうなづけます。

後日談

「渡りの一日」ではまいが同級生と一日をすごす話。魔女修行で成長したまいの姿が立派に描かれています。

また、梨木果歩作品集に、ブラッキーの話(まいの母と愛犬ブラッキー)、大人になったまいが祖母を追憶する話、まいが去ったあとのおばあちゃんなどスピンオフ作品もあります。

道草を食む

「西の魔女が死んだ」有名なタイトルだけあり知ってはいましたが、なかなか読む機会がありませんでした。

私のお気に入りのポッドキャスト番組が、本書を紹介していたのが決め手となり、ついに手に取った次第です。ここでの紹介の仕方も上手で、本当に読んでしまいたくなる内容です。

雑草を生活に取り入れて暮らしを豊かにするというコンセプトの「道草を食む」から、ヒメワスレナグサを紹介したエピソード。正式な名前ではないが、この本にも登場する重要な植物です。

ぜひこちらのポッドキャストでも「西の魔女が死んだ」の作品紹介、そしてパーソナリティMichikusaさんが語る雑草の世界の魅力を楽しんでください。

西の魔女が死んだ

¥649

西の魔女が死んだ
梨木香歩

感受性豊かな少女が魔女修行によって成長していく物語。

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【博士の愛した数式】記憶と数学の美しさについての物語

記憶が80分しかもたない数学博士と、その家政婦と息子の3人の温かな絆を、数式の美しさを織り交ぜながら紡いだ物語。

自分が小学生くらいのころに一度読んだきり、20年ぶりくらいに読み返しました。大人になって読んでも感動できる名作です。

本当に正しい証明は、一分の隙もない完全な強固さとしなやかさが、矛盾せず調和しているものなのだ。なぜ星が美しいか、誰も説明できないのと同じように、数学の美を表現するのも困難だがね。

博士
小川洋子

1962年岡山県生まれ小説家。1991年「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞、後に数々の文学賞を受賞している。

あらすじ

主人公の「私」は、家政婦組合の紹介で博士のもとへ派遣されまし。30代で組合の中では一番若いが、キャリアは10年、どんな顧客ともうまくやってきた自負があります。

博士は64歳の数論専門の元大学教師。しかし彼の顧客カードにはクレームにより家政婦が変わった記録が8回あります。

面接で博士の義姉に求められたのは、難しいことはなくただ食事から家事までの世話。ただし博士のいる離れと母屋を行き来しないことと、トラブルは必ず離れの中で治めることが条件でした。

しかし大きな問題が一つ。それは博士は記憶がきっかり80分しかもたないこと。17年前の交通事故により記憶障害が現れ、事故以前の記憶はあるが、それ以降は常に80分しかもちません。頭の中に80分のビデオテープしかセットできず、常にそれを上書きしながら生きているイメージ。

初対面でいきなり靴のサイズや電話番号など数字にまつわる質問を投げかけられた家政婦。靴のサイズが24と答えると、博士は「4の階乗だ」と数字に意味を見つけて喜びます。

普段は背広姿だが、普通の人と違うのは背広のあちこちにメモ用紙をクリップでとめていること。80分の記憶を補うために忘れてはならない事柄をメモして、そのメモの存在すら忘れないように体に貼りつけています。

博士の日常は、数学マニア向けの雑誌に載っている問題を解いて応募すること。金持ちの数学愛好家が賞金を出していて運が良ければお金がもらえます。そうでなくとも博士のかつての仕事や、事故の補償などで生きていくには困らないでしょう。ただ数学への愛と好奇心で雑誌懸賞に取り組んでいます。

博士のもとで働き始めて2週間が経過したころに、袖口に新しいメモ「新しい家政婦さん」が追加されていた。

ある日の仕事中に私に10歳の息子がいる話になりました。シングルマザーなのでいつも家で一人留守番をしています。すると博士はそれはいかん、絶対に一人にさせないで職場(博士の家)に連れてくるように強く言います。そうして家政婦に息子がいると背広のメモを新たに追加しました。

博士は子供に対してはとにかく寛容で過保護な性格でした。「君はルートだよ。どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号、ルートだ」そういって息子を名付けてやります。

博士はルートの宿題をみてやったりと、これから私と息子と博士の奇妙な3人の生活が続きます。

書評

家政婦と息子と博士。家族とはまた違った、人とのつながりを感じる心温まる作品です。全体的に内容が易しいので、大人になって読み返しても子供の頃に得た読後感とあまり変わりませんでした。子供から大人まで広い人に受け入れられやすい、読みやすい本ということですね。

タイトルに数式とありますが、算数や数学が苦手だった人も安心してください。主人公の家政婦も数学は苦手だけど、博士の話す美しい数式にどんどんと引き込まれていき、博士を理解しようと努める家政婦がその数式を文学的に昇華してくれるようでした。

そして博士の記憶が80分しか持たない点ですね。

家政婦が毎日訪ねても、仕事の始まりはいつも自己紹介からのスタート。前日までに交わしていた会話の文脈は一切なくなるし、博士に出会って間もない頃は戸惑うことが多かったです。

逆にその記憶の忘却が良い方向に働くこともありました。博士の数学の話が難しくても何回でも遠慮なく同じ質問をできること。ちょっとした失言があっても次の日には忘れてくれていることなど。

記憶がなくなるのにどうやって関係性を築いていくのか、そもそも関係を築いていくことに意味があるのか。ほかの家政婦が手に負えなくても、主人公は最大限に博士の人間性と記憶の特性の理解に努めていました。そして博士の記憶がなくなることに配慮をしながらも、今を生きるこの瞬間を大事にしようとしていました。

毎日がリセットされる博士だけど、それでも確実に博士と家政婦と息子の関係性が少しずつ深まっているのが分かってきます。私はここに人間関係がいかに相手の理解に努めようとする姿勢が重要であるかが読みとれると思います。

義姉(未亡人)の真意

未亡人の義姉は、家政婦の仕事以上の干渉に対してやたら過剰な反応を示していました。

作中に博士と義姉の2人が仲睦まじく映る写真が発見さており、明言されてはいませんが、博士と義姉が恋仲であったであろうことが想像できます。単純に考えれば義姉の家政婦に対する嫉妬とも思えるでしょう。

読者の想像にゆだねられる部分ではありますが、おそらく義姉は博士に余計な心労や混乱を与えないように離れと母屋でなるべく接触しないようにしていました。

あるいは博士の記憶が事故以前しか保たれていないとなると、博士の中の義姉はもっと若い姿のままのはず。義姉はすでに年老いた自分の姿と博士の記憶の中の自分とでギャップを感じられたくなかったとも思われます。

そう思うとわざわざ家政婦を雇って博士の世話を任せていることにも納得できます。

なぜオイラーの公式だった

博士がオイラーの公式のメモを置いて退室し、険悪な空気を治めた場面がありました。なぜオイラーの公式を見た義姉は引き下がり、一度クビにした家政婦を復帰させたのでしょうか。

ある数学者が素晴らしい考察をブログに残しているので要約して紹介します。

※オイラーは人類最高の数学者で円周率、虚数単位、三角関数などを定義しました。自然対数の底eはオイラーのEulerにちなんでいます。並の数学者が生涯に書き上げる論文を1年弱で書き上げていたほど多くの実績があります。

π、e、iという数学上まったく無関係にそれぞれ研究されてきた基本定数と、最小の自然数である1を組み合わせると0になってしまう、その極めて簡潔なところに感覚的な美しさがあると思われます。


まさにこのπ、e、iが、博士と家政婦とルートの3人を示しており、それぞれ無関係だった三者が綺麗に収束していく先行きを理解して義姉は引き下がったと思われます。

参考:博士の愛した数式 算チャレ参戦記 村上綾一

オイラーの公式の部分だけは、数学的にも文学的にも読み解くにはちょっと難しいですね。

博士の愛した数式

¥693

博士の愛した数式
小川洋子

あまりに悲しく暖かい、奇跡の愛の物語。第1回本屋大賞受賞。

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【蛇を踏む】踏んだ蛇が女に化けて家に居たので一緒に住んでみた

藪で、蛇を踏むと「踏まれたので仕方ありません」と声がして、蛇は女になりまし。「あなたのお母さんよ」と、部屋で料理を作って待っていました…。若い女性の自立と孤独を描いた芥川賞受賞作。

軽く読み切れそうな薄い文庫本をと思って手に取った小説でしたが、思いのほか内容が難しくて読むのに苦戦しました。

よくわからないけどね、しょわなくていいものをわざわざしょうことはないでしょ

蛇を踏む コスガ
川上弘美

1996年「蛇を踏む」で第115回芥川賞受賞。その他数々の文学賞を受賞し、その功績から紫綬褒章を受章。芥川賞、谷崎潤一郎賞の選考委員をつとめる。

あらすじ

職場の数珠屋「カナカナ堂」へ向かう途中、公園で蛇を踏んでしまい、その蛇は「踏まれたらおしまいですね」と言い、人間の姿に化けてひわ子の家の方角へ消えていきました。

ひわ子はコスガと一緒に数珠を納品しに甲府のお寺へ行きます。そこで住職が最近蛇が増えてると世間話をしたもので、ひわ子はコスガに蛇を踏んだ話を聞かせました。

部屋に帰ると昼間の蛇が50歳くらいの女に化けて夕飯を作っています。蛇はヒワ子の好きなご飯も、使うべき食器も、ビールにつぎ足されるのが嫌いなことも全て把握しているのです。

蛇にあなたは何者なのかと尋ねると「ヒワ子ちゃんのお母さんよ」と返答。心配になって本当の母である静岡の実家に電話をかけてもいつも通りのやり取りがあっただけで、母と名乗る蛇が何者なのかはわからずじまいでした。

翌日カナカナ堂に出勤するとコスガさんに蛇は追い出しなさいよと忠告されます。

蛇と共に過ごす三日目の晩、食事で気が緩む前に開口一番に蛇の存在を追求しました。しかし何度聞いても蛇の返答は「あなたのお母さんでしょう」と一点張り。

そうして蛇が来てから二週間が過ぎたころ、コスガさんと喫茶店で向かい合い再び蛇のことを聞かれました。そして彼の口からうちにも20年前から蛇が居着いてると告白されます。それはコスガの妻ニシ子についてきた蛇で、ニシ子の叔母だと名乗って最初に追い出せなくなったうちに20年も経っていました。

そんな蛇との共生を嬉々として受け入れてしまってるニシ子のことがコスガは怖いと漏らすのです。

書評

蛇を踏んだ描写や化ける様子など生々しい書き方が特徴的でした。

部屋じゅうに蛇の気配が充満していた。

引出しを開けるとノートやペンの間から小さな蛇が何匹も這いだした。這いだして私の腕から首をのぼり耳の中に入ってくる。痛くはないのだが、外耳道に入り込んだ途端に蛇たちは液体に変わってそのまま奥に流れ込む。冷たい。

まだ入り込んでいない蛇を阻止しようとして首を強く左右に振った。振ると、耳の奥で水に変わった蛇が粘稠性を増しながら内示に向かう。ねばねばとした水が三半規管のあたりを満たす。

蛇を踏む

本書から引用しましたが、文章でありながらなまめかしく不気味に想像させる力を感じます。その想像力を助ける確かな文章力が、さらに世界観全体を不穏に作り上げているような気がするのです。

特にニシ子が蛇に憑かれているのを知ってから、彼女の様子がおかしくなってくる様子が怖いです。

主人公のヒワ子は不器用な性格で、付き合い下手なのがうかがえます。前職は教師として生徒に余計な気をまわして自ら消耗して退職したこと、住職の話を聞いてるとそばを食べるタイミングを失うところ、コーヒーはニシ子さんじゃないと淹れてはいけないと思い込むところ。このどうしようもなく世渡りが下手なところが、蛇につけいれられてるようにも見えてしまいます。とても隙だらけに思えてしまうんですね。

一方で女に化けた蛇が家に住み着いてる事実をすんなり受け入れてるのが不思議。不器用な生き様とは対照的な肝っ玉を見せられているようですが、カフカの「変身」のような実存主義的な文学スタイルとも捉えられそうです。

そして蛇の世界とはなにか。個人的には安楽の世界のようなイメージを抱いています。

不器用で周囲との付き合いが難しいヒワ子、親とも疎遠とは言わぬまでも仲が良いわけでもない。対人関係における適切な距離感をつかめないヒワ子にとって、彼女が蛇に感じた「壁を感じない親密さ」はまさに願ってもないものなのかもしれません。

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【ランゲルハンス島の午後】CLASSY.にて2年間連載した村上春樹エッセイ集

村上朝日堂画報という連載で2年間にわたって掲載したエッセイ。本書は連載からエッセイ24篇+表題「ランゲルハンス島1の午後」を書き下ろして書籍化されたものです。

村上朝日堂

村上春樹のエッセイに安西水丸が挿絵を担当した企画。

あらすじ

本書から個人的に気に入った3つのエッセイを紹介します。

シェービング・クリームの話

タクシー料金を払う際に万札しかなく小銭がないときどうするか。禁煙していたのでタバコを買うわけにもいかず、そんなときは決まって化粧品店でシェービング・クリームを買ってお金を崩します。

それを持ったまま街を歩いていると、街がいつもとは違ったように見える。拳銃をポケットにつっこんで街を歩くのを想像してもらえればわかりやすい。それがなんだかシュールに思えるのです。

外国に行くと必ずその土地のスーパーでシェービングクリームを買う。国ごとに特色があるのか、シェービングクリームによって外国に来た実感を得られるようです。

お気に入りはジレットの「トロピカル・ココナッツ」で、これを使うと一歩外はすぐにワイキキ・ビーチという気分になれます。

ONE STEP DOWN

ものに名前をつけるのが好きで、小説家になる前にやっていたバーは昔飼っていた猫の名前をそのままつけました。

あまり深く考えずに、ぐるっとあたりを見回して目についたものを名前につけるくらいが丁度よい。もしまた店を始めるとしたら「カンガルー日和」という名前にしようと思っていたが、その機会がなかったのでそのまま短編小説のタイトルに流用されました。

ワシントンにワンステップダウンというジャズクラブがあります。由来がとても気になったが、お店に一歩踏み入れた瞬間わかりました。

店に入った瞬間、そこは1段足場が下がっているから。

哲学としてのオン・ザ・ロック

翻訳家でも学生時代から勉強は嫌いだったものの、英文和訳の参考書を読むのだけは好きでした。なにが好きかというと、その英文和訳の例文がけっこう飽きないし面白い。そのうちにごく自然に英語の本が読めるようになってしまっていました。

その例文の一つサマセット・モームの「どんな髭剃りにも哲学はある」という言葉。些細なことでも毎日続けていれば、そこに自ずから哲学が生まれるというもの。

バーを経営していたころにはどんなオン・ザ・ロックにも哲学はあるのだと思いながら8年間毎日作っていました。

ただ氷の上にウイスキーを注ぐだけと思うかもしれないが、美味しいオン・ザ・ロックには確実に哲学がある。氷の割りかた一つとっても品位や味が変わるのです。

書評

村上春樹の小説を読んでいると、クールでニヒルな人物が多いように思います。だから作者自身もそうなのかと勝手にイメージを重ねようとしてしまいますが、エッセイを読んでいると意外とユーモアのあるかたなんだなと思います。

文章も小説とはまた違った味で、それでいて「あ、やっぱり村上春樹だな」と思えるんですよね。

そして安西水丸のイラストがかわいらしい。カラフルな色づかいだけど、ちかちかしていないマットな質感の色味というのか、ポップさと落ち着きを両立したような素敵な絵です。

25編の内3つほど紹介しましたが、何度か読み返しているくらい、気軽に繰り返し楽しめるエッセイでした。なによりイラストが目をひくほどの派手さはないけど、なぜか見入ってしまう癖になるような雰囲気。

村上春樹のこの肩ひじ張らない文章、たぶん思いつくままに綴ったであろうエッセイが読んでいて心地良いのです。自分もエッセイを書いてみようかな、なんて思わせる魅力があるのではないでしょうか。

ランゲルハンス島の午後

¥935

ランゲルハンス島の午後
村上春樹
安西水丸(絵)

カラフルで夢があふれるイラストと、その隣に気持ちよさそうに寄りそうハートウォーミングなエッセイでつづる25編。

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【ペスト】コロナ渦を機に再注目された名作

コロナウィルスが流行ったことから、かつてヨーロッパで猛威をふるったペストを想起する人が多いようです。

驚異的なウィルスが蔓延る世の中で、人々がどのような様相を示すのか。歴史を顧みてわかることがあるかもしれません。

Albert Camus

フランスの小説家、劇作家、哲学者、随筆家、記者、評論家。1942年「異邦人」が絶賛され「ペスト」「カリギュラ」等で作家としての地位を固める。1957年ノーベル文学賞受賞。

あらすじ

194x年オランを舞台にペストを取り上げた記録物語。物語の語り手によってペストが蔓延したオランのできごとが記録され、合間に登場人物たちのストーリーが進行していきます。

オランはアルジェリアの主要な港町で商業の中心地です。当時の時代背景はフランスの植民地だったので、本土にお金を流すための経済のための町という感じ。

ロックダウンされて経済がストップすればつまらない町なので、登場人物たちは一層不安に駆られています。

主人公は医師のリウーと、彼の友人でありペストによる災禍で彼の仕事を手伝い続けたタルーの二人。

タルーはこの本の語り手によるペストに関する重要な記録とは別に、街や日常の些末なことをただ手帳に記録。この手帳からも語り手の補足として引き合いに出されます。

ペストによって町がロックダウンされるまでの記録を追い、それ以降はざっくりと紹介します。

  • 4月16日

    鼠の死体

    リウーは診療室から出るときに鼠の死体につまずく。普段こんなところに鼠が出現することなどあり得ない。さらに夕方にも瀕死の鼠を見かけた。

  • 4月17日

    門番の報告

    門番のミッシェル老人が、リウーに「鼠の死体を置いていくいたずらをしてくやつらがいる」と報告。この鼠の死体はリウーの診療所のみならず、すでに町中で噂になっていた。その日の午後には新聞記者のランベールがアラビア人の生活条件についての調査で取材に訪ねてきた。とくに衛生状態での話だったので、ここ数日の鼠の件について触れているのだろう。

  • 4月18日

    ペスト発生

    門番のミッシェル老人の顔色が悪い。さらに大量の鼠が診療所で見つかった。市の鼠害対策課によって、毎朝鼠の収集がされる。

  • 4月25日~28日

    大量発生した鼠

    鼠の死体は日ごとに増え、ピークで1日に8000匹以上が収集された。

  • 4月29日

    増加ストップ

    鼠の死体の増加はぱったりとやんでいった。門番のミッシェル老人がうなだれて、パヌルー神父に支えられていた。首や鼠径部に疼痛、腫物もあり、ひどく苦しんでいた。

  • 4月30日

    そしてロックダウンへ

    翌日、門番のミッシェルの死を皮切りに、町中で熱病におかされて死亡する例が増加。リウーは同業の医師と話してこれがペストだと認めざるを得なかった。リウーと友人のタルーはペストの対応措置をしてまわるが、患者の増加に追い付かない。行政の対応も緩慢で常に後手になっていた。

ロックダウン

患者は増え続けベッドの収容数が足りず、ついにリウーは知事に電話をかけ市が閉鎖されます。

町に入っていくことはまだしも、街から出ることは一切許されません。電話も郵便も規制されました。最初はせいぜい一時的なものだろうと世間は思っていたが、食料は高騰し、病に効くと噂のハッカ飴がよく売れ、映画館は同じフィルムをひたすら流して、尋常では考えられない街の様相になっていきます。

タルーはリウーなどの医師だけでは限界があることから保険隊を組織しました。グランは公務員として働きながら保険隊の幹事として熱心に取り組み、さらに自分の仕事として作家業もしています。彼は目立たないが堅実で真面目でリウーからの信頼も厚い。

一方で元犯罪者のコタールはペスト騒動にまぎれて逮捕されることが有耶無耶になり、この状況を歓迎していました。

同じロックダウン状況下でも、人それぞれの営みと向き合い方が映し出されています。

不条理

食料補給はより厳しくなり、貧しい家庭は極めて困窮、富裕な家庭はほとんど不自由しない格差が広がりました。

ペストは公平に猛威をふるうが、市民のエゴイズムによって人々の心には不公平の感情が先鋭化されていきます。もし唯一の平等があるとすれば、それは人はみんな死ぬということ。

こうしてペスト下における不条理な世界をあらゆる立場の人物を通して描いていくのでした。

書評

語り手は終盤まで正体を伏せられていますが、この語り手の記録によって人々が不条理に向き合う様相、語り手自身が不条理に見舞われる始末を見届けることになります。

この記録的な文章がいかにも客観的かつ無感動に徹しているようですが、その簡潔な文章の影にわずかな感情や気持ちが息づいてるのが不思議な読み心地でした。想像や感情に訴えるよりも、主として頭脳に訴えるような作品です。逆にその特徴的な文章が、小説にしては硬く読み難い気もします。

登場人物は多いけど、それぞれの立場が明確になっているので、人物の輪郭がくっきりとして群像劇の中ではかなり読み進めやすいものだと思います。

ペストによるこの不条理な世界を後世に残すための学術的記録のような重みもありながら、不条理に対する抵抗や受容のしかたが個人的な事象として捉えられる日記ともいえるでしょうか。文学的修練に培われたカミュの文体の魅力ですね。

ランベールの成長

個人的には新聞記者のランベールが次第に心変わりしていく様子が好きでした。

町からの逃走便宜をリウーに断られてからいろいろと奔走したが、合法的には抜け出せないことを悟って、密輸業者を介して衛兵を買収して脱出を試みるも失敗。最終的に彼も保険隊に志願し、自分一人の幸福よりも全体の幸福を願う人間に成長していきました。

町の惨状を目の当たりにして関わった以上、自分はもう町とは無関係の人間ではないこと。そんな気持ちを無視してパリに帰れば、待っている彼女に顔向けできなくなるだろうと想像するんですね。

最初は器の小さい嫌味な人間だと思っていたけど、いざ自分が同じ立場になってみたら、やっぱり自分も我先にと町から出ようとするかもしれないです。だからこそ彼の人間味にはリアリティがあって、その成長ぶりに希望を感じられるんですよね。

リウーとタルー

私が最も好きな登場人物はなんといってもタルーでした。

リウーとタルーの友情、知的な会話、タルーが身の上話を打ち明けて友情記念に二人で海に泳ぎに行く場面。いい大人が青春しているようで、この二人の醸し出す空気間には不思議な魅力があります。

「ペストが収束して平常の生活に戻るってどういうことか」と聞かれると、タルーは「新しいフィルムが来ることですよ、映画館に」と笑いながら言いました。このときの哀愁とユーモアは、本当に彼独特の味わいだと思います。

そして言ってしまうとタルーは最後にはペストに罹ってしまうのですが、ここでもやはりカミュの文体はとてもドライで、静かな感動を呼び起こされるようでした。

不条理文学

作者のカミュは不条理哲学を打ち出した人で、戦争・災害・全体主義といった極限状態への抵抗を描いてきました。

本作のペストはナチスドイツに対する暗喩ともされています。原作の1947年は第2次世界大戦が終わって間もないので、多くのヨーロッパ人はこの本を自分事のように理解していました。

ダニエル・デフォーのエピグラフに表れています。

「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである。」

ダニエルデフォー

つまり戦時中にナチスドイツへのレジスタンスに参加したカミュの体験が、ペストという別の形をとってフィクション作品として再現されています。

もっと広義的には、この世の悪、不条理などすべてに対する私たちの姿勢そのものと言えるでしょうか。人間が不条理とどう向き合って生きてくのかを示してくれる群像劇でした。

ペスト

¥935

ペスト
カミュ
宮崎嶺雄(訳)

発表されるや爆発的な熱狂をもって迎えられた、『異邦人』に続くカミュの小説第二作。

【参考図書】ペスト大流行

黒死病とよばれたペストの大流行によって、ヨーロッパでは3千万近くの人々が死に、中世封建社会は根底からゆり動かされることになった。記録に残された古代以来のペスト禍をたどり、ペスト流行のおそるべき実態、人心の動揺とそれが生み出すパニック、また病因をめぐる神学上・医学上の論争を克明に描く。

村上陽一郎

東京大学名誉教授

古代世界のペスト、最初のペスト文学から始まり、その歴史をたどっていきヨーロッパ社会を脅かしたペストの驚異を浮き彫りにしていく本です。

  • ペストは保菌者であるノミの咬傷からペスト菌が血液中に注入されて発病
  • ネズミをはじめとした齧歯類も共通して宿主となり、とくにクマネズミが媒介
  • 「腺ペスト」は40度前後の熱発、麻痺や硬直、精神の倦怠感や錯乱、そして局所的な淋巴腺の腫脹、紫斑や膿胞が黒いことから黒死病という
  • 「肺ペスト」は淋巴腺の腫脹は見られないが、肺炎症状で心機能が低下して突然死を誘うこともある
  • 死亡率は時期や社会的状況をすべてひっくるめて平均30~40%
  • 現代でも地球上にペストはあるが、有効な抗生物質により歴史的な大流行はもうなさそう
  • ペストに限らず流行病の多くは神の意思、あるいは神託として解釈された歴史がある。神学的立場と医学的立場からの対立が見られる所以

また、バッタの大量発生が間接的にペストの流行に関連しているなど、興味深い話やデータなどもありました。

こういった小説との関連本もあわせて読んでみると、より作品の深みを味わえるような気がします。

ペスト大流行

¥836

ペスト大流行 ヨーロッパ中世の崩壊
村上陽一郎

かつてペストの大流行は三千万の人命を奪った。医学から神学まで、社会を揺るがす大パニックの実態。

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【変身】朝起きたら毒虫になっていた悲しい男の話

カフカの代表作となる中編小説。カミュの「ペスト」同様に実存主義文学かつ不条理文学といえます。

朝、目を覚ますと俺は虫になっていたという始まりは衝撃的です。

Franz Kafka

ユダヤ人の商家としてプラハで生まれ、法学を修めた後、役人として勤めながら執筆活動。人間存在の不条理を主題とするシュルレアリスム風の作品群を残した実存主義文学の先駆者。

あらすじ

ある朝、グレーゴルが目をさますと自分が巨大な毒虫になっていました。鎧のような堅い背、褐色の腹、たくさんの足、ねばねばした分泌液。

まだ夢の中ではと思ってもうひと眠りしようとしても、慣れない虫の体のせいでうまく眠りにつけません。

こんな異常事態でありながらグレーゴルが考えていたことは、外交販売員としての仕事の苦労のことでした。すでに汽車に乗る時間を逃してしまい、仕事に遅刻することが確定しています。

時間に心配した母と父が起こしに来るがうまく返事ができません。相手の言語は解るが、こちらから発声して伝えることができないのです。

グレーゴルは日ごろの習慣により、部屋の戸締まりはきちんとしていたので、家族が様子を見に来てもとりあえず部屋にこもってやりすごしていました。

虫になった体でどうにかベッドから起き上がり、仕事に向かう支度をしなければ。

ついに職場の支配人が訪ねてきたので「体調が悪い」と適当な問答をして場をしのごうとするが、ついに両親と支配人たちが鍵屋を呼んでこじあけようとします。

なんとか自力で扉をあけて姿を表すと、母は絶句、父は臨戦態勢、支配人は恐怖のあまり逃げ出してしまいます。支配人に状況を取り繕ってもらうために、グレーゴルは追いすがろうとするが、その恰好が襲おうとしているかのように勘違いされました。父が棒でグレーゴルを追い立て、虫の姿で自室に引きかえすしかありませんでした。

今後もこのような誤解が生じ得るので、うかつに行動できません。そうしてグレーゴルの自室でのひきこもり生活が続きます。

グレーゴルは虫であることに順応し、家での居場所を失い、人に傷つけられていき…最後にグレーゴルがとった選択とは――。

書評

まずとにかくシュールな設定が目を引きます。ベッドから起き上がるだけでも相当な時間がかかり、そんな状況にグレーゴルは自分でもおかしくなって笑っちゃいます。

そして虫になったまま、仕事に行かねばと焦っている点。どうしてこの状況を素直に受け入れているのか、もっと気にすることがあるだろうにと思って仕方ないですね。

この本を読み解いていくと、虫になったこと、それ自体には意味を持たせていません。だから最後まで虫になった理由も何も説明がなく、その状況が当たり前かのように淡々と進行していきます。

そして個人的にはグレーゴルの健気な性格に少し心を痛めます。こんな不条理に見舞われても、仕事のこと、家族のこと、そしてお金のことなど、彼は常に他者のためを想っていました。両親の借金を肩代わりしながら、やりたくない仕事を続け、広い家に住まわせている孝行ぶり。妹の音楽大学のための学資まで工面していました。

それが虫になってしまったばかりに、家族に気を使って怯えながら生活し、人間としての尊厳は急速に失われていく。逆に虫として扱われることに慣れていき、自尊心なんてあったもんじゃないでしょう。

彼の世話役を買っていた妹の心情も複雑です。慕っていた兄が突如虫になり、家族の中で自分しか世話をしない。最初はそんな微妙な気持ちで世話をしていたのが、次第にグレーゴルを虫を飼っているかのような対象として捉えだす。そんな妹の狂気のようなものが見え隠れします。

虫の姿について

このグレーゴルが『なんの虫』になったか、これはあらゆる議論がありますが、基本的には特定の虫を想定していないようです。作中でもグレーゴルは極力他人に自分の姿を見せないようにしているので、客観的な彼の姿を表している描写はありません。

グレーゴル自身の動きからさっするにムカデか、ゴキブリか、コガネムシなどいくつかの憶測はありますが、具体的な言及はされていません。確かなのは硬い外殻があること、毒があること、粘液を分泌することなどですね。

作者のカフカ自身、作品としても虫の姿を見せて読者にイメージを固定化させるのは避けたかったようです。その根拠に彼は、扉絵や挿絵に絶対に虫の姿を描かないよう要求していました。

一説によると虫の姿を固定化させない理由に、読者に想像を拡大できるようにしてるのではと思われます。

例えば、もし変身していない前提で状況だけを整理すると、グレーゴルは家族を養いながらしたくもない仕事を続ける重圧からノイローゼになった、とも捉えられます。虫になったか否かだけを取り除けば現実にあり得る話で、まるでグレーゴルにふりかかった事故のように思えます。なぜ虫になったのかといった問いは一切なく、誰も気にせず、それこそふいに日常を襲う不条理性を描いているようです。

それでも生きていかなければならない、ここに本作の実存主義的な意図が見えます。

実存主義と不条理

虫になったことが事故だと前述しましたが、これもまた現実に置き換えられます。

例えば不慮の火災で顔を火傷して醜い姿になったとする。この容姿に対する不条理な事故という点において、虫になろうが、顔を火傷しようが、その原因や本質を追求しても仕方ない。事実は事実とただ受け入れて今を生きるしかありません。

これが実存主義。

実存は存在そのもの、本質はその存在が作り上げる目的や意義だが、起きた事故に目的や意義なんてありません。

これらの解釈を広げていくと、人間というのは本質をもたずにこの世に産み落とされるものだと思えます。本は知識を与えるために書かれるし、時計は正しい時間を刻むために生産されます。人間もなにか運命や使命に定められていると思われるでしょうか。しかし人間は自分の未来を選択する能力があります。

「何のために生まれてきたのか分からない」なんて悩みは多いですが、本質を伴わないまま右往左往しながら生きていくから、誰もが常に不安をかかえているのです。逆に言えば何にも縛られない自由であるということ。

人生において常につきまとう不安から逃れるために目的や意味を求めるのではなく、自身の自由な意志と選択をもってして主体的に生きるのです。

当然その自由には責任も伴うが、だから生きるのは楽しい。そう哲学者のサルトルは言っています。

この実存主義的な思想で、不条理に抵抗していくさまを文学に落とし込んだのがカフカの変身です。

変身

¥539

変身
フランツ・カフカ
高橋義孝 (訳)

事実のみを冷静につたえる、まるでレポートのような文体が読者に与えた衝撃は、様ざまな解釈を呼び起こした。海外文学最高傑作のひとつ。