
葛飾北斎の富嶽三十六景になぞらえて36章の掌編小説のごとく構成されている本です。まずは最初から最後まで普通に読んでみて、再読の際は適当なページをめくって章ごとにつまみ読みしても楽しめそうです。
何かが消えて、別の何かがその後釜に座る。 世界はそんなふうに出来ているんだよ。
23章 沼 ファウストの父親
あらすじ
人生に疲れた40歳の作家ファウストは、パートナーと別れ、長年暮らしたミラノを離れてフォンターナ・フレッダにやって来ます。
レストランでコックの職を得たファウストは、そこで知り合ったウェイトレスのシルヴィアと付き合うように。レストランオーナーのバベットや、元森林警備隊のサントルソらとも交流を深めていきました。
やがて、狼たちがイタリアンアルプスからおりてきたころ、シルヴィアから贈られた「富嶽三十六景」の画集を贈られ、冬は仕事がないので別々の道を行きます。
ある日サントルソが事故に遭って運ばれたと聞いたファウストは、麓の病院まで見舞いに行ったが誰もおらず、身寄りがないのかと疑いました。サントルソは見舞ってもらった礼に、ファウストに夏の仕事を紹介します。役所が林の間伐をするので、コックとして同行することでした。
一方シルヴィアはフォンターナ・フレッダの2倍の標高3585mのモンテ・ローザで働くことに。モンテ・ローザの過酷な氷河を目指して、案内人のパサンとともにセッラ小屋を目指していました。
ファウストは休みにモンテ・ローザまで登りシルヴィアと再会します。再開して気が付いたのは、ファウストは以前よりも少し生き生きとして逞しくなったこと。シルヴィアは山に疲れて少しやつれていること。
夏の終わりごろ、ファウストはセッラ小屋まで行き、シルヴィアに誕生日プレゼント「フォンターナ・フレッダ三十六景」を渡しました。ファウストの手書きの短編小説です。
彼はバベットの店を引き継ぐことも伝えていましたが、シルヴィアの反応は期待したものではなく、2人の関係の潮時なのかもという雰囲気が漂います。
人の山に対する考え方は、そこに暮らす人と、遠ざかっている時ではずいぶんと異なるもの。遠くで考えると山の現実はぼんやりとした抽象的な概念になり果ててしまいます。北斎の絵の奥に小さく描かれた富士山のような、てっぺんに雪をかぶったただの三角形になってしまうのです。
書評
作者(パオロ・コニェッティ)自身、作家として行き詰り、この実在するレストランで2年ほどコックとして働いた実体験が反映された物語。そして葛飾北斎が物語のモチーフ、小道具として重要な役割を果たしています。
今この瞬間を生きる人々の暮らしぶりと、そんな人間たちに無関心な泰然自若としていつもそこにある山とのコントラストを描いているようでした。
それほど長い本でもなく200ページちょっとを36章に細切れにしているので、サクサクと読み進めやすいです。読み終わった後も、それぞれの章をかいつまんでショートのように読めるのが魅力的な本でした。
話全体では舞台となる山の話がメインなので、登山経験などがあるとより想像しやすいですね。アルプスで1000m登ることは北に1000㎞移動することに近しいという話。標高が上がることで気候や植生が変わるのですが、フォンターナ・フレッダが1815mでそれを北移動に換算するとデンマークやノルウェーに相当します。北極点なら5000㎞弱だからモンブランの頂上といったところ。山登りがはるか遠くへの旅に類似した経験を得られる新たな視点の魅力でした。
ファウストとシルヴィアの二人の恋愛は、前半は甘くきざったらしい雰囲気でしたが、後半にかけてふわふわと自然消滅していきそうな怖さがあります。山のレストランは季節労働であり長く一緒にいられるわけでもありません。二人は年齢も未来も山に対する気持ちも違うところがあって、恋愛模様の変化と人生の移ろいが表現されているようでした。
ファウストの魅力
フォンターナ・フレッダで得た教訓は「食事の支度をする人間は常に必要とされているが、書き手の需要は高くない」
作家としてうだつの上がらないファウストですが、彼には人間的な魅力があって、まず山に移住してあっさりと仕事をみつけたこと。そして出会う人それぞれ、うまく関係を手繰り寄せて山での暮らしに溶け込んでいったこと。
彼の作家業が大成するかは分からないけど、ここでの暮らしが幸せなものになっていくような予感は感じられました。
そしてなぜタイトルが「狼の幸せ」なのか。
山ってやつは狼と風の領分だからな。
38p 6章 倒れた森 サントルソ
木々は動物とは異なり幸せを求めてどこかに行くことができないので、種が落ちた場所で幸せになるためにどうにかするしかありません。
しかし不思議なのは狼で、なぜか落ち着かず移動を繰り返して不可解な本能に従って動きます。どこかで獲物があふれていても何かが定住を妨げせっかくの恵みを放り出し、常に新天地を求めています。雌のにおいを追い、群れの遠吠えを追い、明確な目的もなかったりもして。
ファウストはそんな狼だったようです。ファウストに限らずシルヴィアも、バベット、サントルソも。どこかで合理的な判断とはかけ離れた選択のもと、狼のようにフォンターナ・フレッダに辿り着き、また別の世界に移っていくのかもしれません。
イタリアの食について
ファウストが山男たちにふるまう食事や、イタリア独自の食事メニューが出てきます。
例えばポレンタというメニューがあります。聞いたこともありませんね。コーンミールを粥状に煮たイタリア料理で、粗挽きトウモロコシ粉を沸騰した湯やだし汁に振り入れて煮て、焦げ付かないようにこねながら煮上げるもの。
また、グラッパというお酒が度々出てきます。イタリアで定番の食後酒で、ワインを造る際のブドウの絞りかすを使った蒸留酒。果汁以外にも種や皮も含んでいることや、白ブドウだけではなく黒ブドウも使うのがブランデーとの違い。作中では松ぼっくりを入れた飲み方なども登場しましたが、ストレートで飲むのがメジャーです。エスプレッソに少量混ぜるカフェ・コレットという楽しみ方もあるみたいです。

羽田空港の近くのホテルに泊まった際、近くのイタリア料理店で飲みました。
この本を読んでいたからグラッパというのが初めて目についたのでしょうね。アルコール度数は40度くらいできついけど、ほんのりレーズンのようなブドウの香りがあって食後にぴったりでした。
ちなみにグラッパはサイゼリヤでも普通にメニューにあったみたいです。