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【ジキルとハイド】二重人格の代名詞となった怪奇小説

人間に内在する善と悪の二面性を捉えた二重人格の代名詞となった名作。ジキル博士が純粋な悪に心を染めてハイドに成り変わること、その悪への誘惑に抗いきれなかった男の悲劇。

スティーブンソン

1883年に『宝島』1886年に『ジキルとハイド』を刊行。コナン・ドイル、プルースト、ヘミングウェイ、夏目漱石など同時期~後世に活躍した作家から高く評価された。

あらすじ

精悍な弁護士アタスンは友人から噂話をききました。ある小男と少女が十字路で鉢合わせてぶつかった際に、小男が少女を踏みつけてその場を去った事件。小男はすぐさま周囲の人に連れ戻されたが、示談金として100ポンドを支払ってことを済ませようとします。しかしその100ポンドの小切手がロンドンでも高名な人物ジキル博士の名で支払われたのが問題でした。

少女を踏みつけにした邪悪な小男はハイドと名乗ったが、高名なジキル博士といったいどんな関係があるのか。

アタスンはかねてよりジキル博士から遺言状を預かっており、博士が死んだら財産のすべてを友人のエドワード・ハイドに相続するという内容だったことを思い出します。

後日ジキル博士にハイドの件についてアタスンが尋ねるが、ジキルはその件について深くは触れずにかわされてしまいます。

またある日、街で国会議員がハイドに暴行を受け殺害される事件が発生。そのままハイドは一切姿をくらましてしまいました。

アタスンが再度ジキルのもとを訪ねて極悪人ハイドとの関係を断つように進言すると、ジキルはそれを聞き入れたものの外界との接触を拒んで家にこもる隠遁生活となります。その様子を見てアタスンはジキル博士に対してますます不安と心配を募らせました。

ハイドが完全に消息を絶ち、ジキルが隠遁生活を始めてしばらくたったころ。ジキル博士の屋敷の使用人が、博士の様子がおかしいと訪ねてきました。その夜、アタスンがジキル博士のもとへ行くと、すでに事件が起きており…。

ロンドンを震撼させた悪人ハイド、彼を相続人にしようとするジキル博士の謎、そしてジキル博士の重大な秘密を知って亡くなった人物。これらのすべてが繋がる最後の夜が始まります――。

書評

本編は140ページほどの中編小説、古い本にしては内容が褪せない設定で、登場人物も少ないので非常に読みやすい本でした。

弁護士であるアタスンの視点でミステリー調に進行していきます。ミステリーとはいえ読者視点では、はじめからジキルとハイドが同一人物であることが分かり切っているので、ジキルの内心を探りながら事件の全容を明らかにしていく過程に物語の面白さがあります。

事件の全容が明らかとなる最後の夜の後、ジキル博士が遺書として残した手記による告白という二部構成です。このジキル博士の告白は、たった140ページの短い物語の4分の1も占めており、ジキルの切迫した思いや葛藤が鮮明に描かれています。

彼の手記の中で最も印象的だったセリフに、その苦悩とこの物語の本質が凝縮されていました。

「人間が抱えるふたつの人格を分離して考えるのが愉しみだった。”悪”のほうは、清廉潔白な双子のかたわれの理想や呵責の念から解放され、堂々とわが道を突き進むことができるのではないか。”善”のほうは、すじちがいの”悪”がもたらす恥辱や後悔にさらされることなく、喜びの糧である善行を繰り返し、迷うことなく高潔の道を進むことができるのではないか。この相容れない二本の薪がひとつの束にくくりつけられていることこそ、人類の呪いなのではないか。」

114p ヘンリー・ジキルが語る事件の全容 ジキル博士の手記

ハイドは紛れもなく悪だが、ジキルはあくまでも理性をもって悪を抑制した善の仮面をかぶった普通の人間です。人間はこの善と悪の二面性を合わせ持ってその人格を形成していますが、これがどちらかに振り切れることはないために相反する性質が精神内においてストレスを生むのでしょう。それを科学の力で分断して純粋な悪になりきれる快感に酔いしれてしまったのが、天才であるジキル博士の悲劇でした。

ちなみにジキルとハイドにはモデルがあります。18世紀、高級家具職人組合長かつエディンバラ市議会議員でありながら、裏ではスリルを求めてギャンブルの種銭稼ぎに夜盗をはたらく『ウィリアム・ブロディ』です。彼は家具師として自身で初めてエディンバラに絞首台を作り、初めてその刑具の受刑者になった皮肉な話。この顛末までもが本作のジキルとハイドの最期に重なるところがあります。

ジキルとハイド

¥539

ジキルとハイド
ロバート・L・スティーヴンソン
田口俊樹(訳)

人間の心に潜む善と悪の葛藤を描き、二重人格の代名詞としても名高い怪奇小説。

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【ハツカネズミと人間】アメリカの農場を渡り歩く非正規労働者の儚い夢と現実

読むのは2度目でしたが、初めて読んだときには気が付かなかった伏線や人物の心情を楽しめました。

ボリュームが中編程度と読みやすく、2023年に新装版文庫も出版されているので、これから海外文学を読んでみようというかたにもおすすめの一冊です。

ジョン・スタインベック

「怒りの葡萄」でピューリッツァー賞を受賞、1962年にノーベル賞を受賞。

あらすじ

アメリカのカリフォルニアを舞台に、ジョージとレニー、二人の渡り労働者と農場での人間模様を追った物語。

小柄だが頭がきれて口がよく回るジョージと、体はでかいが幼児レベルの知能しかないレニー、対極にある2人がペアを組んで農場を転々と渡りあるきます。2人に友情があるのは確かだが、どこか互いに依存してる部分があったり、不安定な関係であることが感じられて落ち着きません。

農場のリーダー格である気立ての良いスリム、横暴な親方の息子カーリーと奔放な妻、余生が迫るキャンディ老人など。農場内での人間模様が鮮やかなヒューマン小説。

将来自分たちの農場を持つ夢を抱くジョージとレニーは、この農場である現実を目の当たりにします。

ジョージとレニー

ジョージとレニーは前に働いてた農場から追いやられるようにして、次の農場を目指して近くの河畔まできていました。夕暮れだったのでその日は農場より少し手前で野宿します。

夕食の準備中にレニーはポケットにハツカネズミの死骸をしのばせて手でもてあそんでいます。レニーにとってはただ動物や素敵なものをかわいがりたいだけで、前の農場でも女の綺麗なドレスに触りたいだけだったが、女が身を引いても手を離さないからパニックになって、そのまま逃げるはめになりました。

新たな農場ではレニーのその大馬鹿がばれないように、ジョージは「親方には何をきかれても一言もしゃべるな」と釘をさしました。レニーはとにかく力と体力だけはあるのだから、黙って仕事ぶりだけを見てもらうという寸法です。

一晩明かして翌日の昼前に農場へ到着。老掃除夫キャンディに宿舎の案内を受けます。

二人は親方に労働カードを渡して今日から働く手続きを済ませるが、親方はジョージがレニーに喋らせないことを不審に思います。ジョージはレニーがラバの扱いも耕作機の操作もできるし、400ポンド(約181㎏)の俵もかつげる、利口じゃないから喋らないが働きっぷりは確かですよと、ジョージの機転と口上でなんとか切り抜けました。

その日の夜の飯場。キャンディ老人の犬が臭すぎると、ほかの労働者が追い出そうとせきたてます。老犬はどうせ先が長くないし、生きているだけでも辛そうなのだからいっそ楽にしてやるべきだと、拳銃で安楽死させるために犬が連れだされました。キャンディは納得できませんがそれを受け入れるしかありません。

飯場には犬を失って傷心のキャンディと、ジョージとレニーの3人しかいない。そのときレニーとジョージが将来自分たちの農場を持つ夢の話をしていたところ、キャンディが仲間に入れてほしいと嘆願してきます。そのかわりに土地を買う資金に貯金の350ドル出すと提案。ジョージとレニーは2人月末の給料合わせて100ドル入るから、小さな土地を買う夢の話も現実的になってきました。

ジョージの決断

ある日、黒人の馬屋係クルックスの部屋に迷い込んできたレニー。2人は彼の部屋でしばらく他愛のない話をしていました。

クルックスは黒人差別を受けていて農場では孤独だったし、自尊心が強い性格なので寡黙で他人とは距離をおく性格です。しかしレニーはどうせ馬鹿で何を話したところで忘れるからと、身の上話をしていたところ、カーリーの妻が部屋に入り込んできました。

カーリーの妻の訪問が発端となり、レニーは大きな事件を起こしてしまいます。困ったレニーはジョージとあらかじめ話していた「困ったことがあったら逃げ込む場所」を目指して姿を消します。

町から帰ってきた労働者たちがその事件を目の当たりにすると、ジョージはとある決断をくだします。

書評

農場内のそれぞれの人間性を引き出しながら、それだけで世界観を作り出している本書。さらに場所と時間が限られていて、木曜日の夕方~日曜日の夕方までの4日間で、場所は2人が訪れた農場とサリーナスという河畔のみに絞っています。しかもずっと農場にいるのに、仕事をしている描写は一切ない。仕事が終わった後の、労働者たちが飯場で賑やかにしている雰囲気だけで、作品全体の輪郭を作ってます。

一貫して外面描写に徹しているので、人物のこう思ったとかこう感じたといった主観的な内面描写はありません。そのため淡々とした筆致にはなりますが、ジョージとレニーの友情や夢への渇望など、農場で働く人々の人間模様が生彩に描かれています。

基本的には常にジョージとレニー、その周囲の人間の様子や会話だけを追ったヒューマニズムに徹した作品です。

ジョージにとっては馬鹿なレニーがいなければ気楽に働いて、稼いだ金をぱっと使って、また働きにでるという調子のよい暮らしができるのに、それでもレニーと一緒に居続けるのはなぜなのかが要になっています。

実はとくに重要なシーン、キャンディの老犬の臭いに迷惑していた労働者が犬を射殺するシーン。周りの労働者もキャンディに気を遣う素振りを見せますが、どうしようもない状況でした。銃を持って犬を連れだしてから、だいぶ間が経ってから銃声が響くのですが、明記されていないがたぶん犬は安楽死ではなく殴られたりしながら最期のとどめに撃たれています。

キャンディ老人は後に「あのイヌは自分で撃てばよかった、よそのやつに撃たせるんじゃなかった」とぼやくのが印象的。

あまり言及すると最後のネタバレになってしまうけど、この撃たれた老犬はレニーの暗喩で、レニーが引き起こす事件の顛末に非常に重要な意味を持たせてくれていると思われました。

また、本好きとして個人的に印象に残ったセリフ。

本なんて、つまらねえよ。人間には仲間が必要だ――そばにいる仲間が。

114p 黒人の馬屋係クルックス

差別を受けていた黒人クルックスだからこそのセリフで、ここでいう「仲間」というのもあらゆる意味をはらんでいます。人間が社会的生き物で、一人では生きていけないこと、そしてときにはその社会によって葬られてしまうこともあること。

最期まで読んでわかるこの話の切なさとやるせなさ、ジョージとレニーの不安定だけど確かな友情というのが、読者の胸をしめつけてきます。

ハツカネズミ

本作の題名「ハツカネズミと人間」はスコットランドの詩人ロバート・バーンズの詩「ハツカネズミに」からとられていて、この小説そのものを表しています。

ハツカネズミと人間の このうえもなき企ても

やがてのちには 狂いゆき

あとに残るはただ単に 悲しみそして苦しみで

約束のよろこび 消えはてぬ

ハツカネズミと人間

¥572

ハツカネズミと人間
ジョン・スタインベック
大浦暁生(訳)

『怒りの葡萄』でピューリッツァー賞を受賞した著者による中編。木曜日の夕方から日曜日の夕方まで、河畔と農場での会話と情景を切り取った戯曲的小説。

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【老人と海】男の矜持がつまったヘミングウェイ代表作

年老いて落ち目となったひとりの漁師が、年齢による衰えにも抗いながら、3日3晩大物カジキと海で格闘。

非常にシンプルなストーリーで、極論ただおじいさんが大きなカジキを釣り上げて帰ってくるだけ。ひたすら一人で孤独に3日間船の上でカジキと格闘しています。

自然の驚異に屈しない老人の意地とプライドが、まっすぐと淡々に描かれていました。

アーネスト・ヘミングウェイ

1952年本作「老人と海」でピューリッツアー賞、ノーベル文学賞を受賞した。

あらすじ

老人サンチアゴのかつての異名はザ・チャンピオン。歴戦の漁師で、その体つきや傷までもがたくましい男です。

しかしここ最近はずっと不漁続きで、ついにサンチアゴも落ち目となりました。

少年マノーリンはサンチアゴのことをずっと慕っていたが、彼の不漁が40日続いたころ、ついに船を降りるように親から言われます。それでも彼はまだサンチアゴの船に乗りたかったし、一緒に漁に出たかった。そんな少年が、老人の最後の漁になるであろうことを悟りながら彼の出港を見送ります。

サンチアゴは日が昇るまでに仕掛けを準備し、堅実な手順でぬかりはありません。舟を波任せにしようとしたところ、ついに鉤にカジキがかかります。

かなりの大物で思うように引き上げられず、カジキの体力が底をつくのを待つしかない持久戦に突入。4時間カジキに綱を引かれながら、老人はそれをただひたすら支え続けます。手を攣って、擦り切れて、背中を痛めて、休憩もとれず、綱にかけてから、丸一日たった頃、カジキがようやく海面に姿をみせました。舟よりも2フィートは長いその巨体を。

とうとう2晩を明かして3度目の日の出。カジキと舟の距離を縮めるチャンスが巡ってきました。綱をどんどんたぐり寄せて、船べりで銛を突き下ろしてなんとかしとめました。

カジキを舟にくくりつけて家路につこうとするも、今度はカジキの血を追ってサメが迫ってきました。老人のさらなる試練の結末はいかに。

書評

読者視点だと釣りや漁にある程度関心がないと想像しにくい状況が多いなとは思ってました。舟はオールを漕いだりしてるから小さいもので、使ってる道具や操作などはなんとなく理解できます。

野球選手の話も頻繁に出てくるので、巻末の解説に続く翻訳者の「翻訳ノート」を先に読むことをおすすめします。当時のキューバーとアメリカの野球事情と、老人が出航する海の実態について補足されています。

老人は今回の漁以前は三か月近く全くの不漁だったから、周囲からはもう落ち目だとされていました。そんな状況で、老人が漁師としてのプライドを携えて、慕ってくれる少年のために最期にひと花咲かせた話。

読み手の感動を誘うような湿っぽい感じではなく、「ついにやったな」という感じで静かに感動させるドライな読みごたえでした。これがいわゆるハードボイルドといわれる感覚なのかもしれません。

状況自体は船上で水中のカジキとひたすら膠着状態、場面転換がなく老人のモノローグが続くので、少々退屈で読みつかれる気もします。

また、老人は決して嘆いたり、状況を悲観したりはしません。サンチアゴの海に対する敬愛が彼を支えてくれたいたのでしょう。そんなサンチアゴでも弱音をもらすのが、船の上で何度も「あの子がいればな」とぼやいて、マノーリンが心の支えになっていたことも伺えます。

一方でマノーリンも、上手な漁師はたくさんいるけど、おじいさんみたいな最高の漁師はほかに一人もいない。二人が信頼し合っていたのがわかる素敵な関係です。

そんな信頼関係が最後のシーン、マノーリンが老人のぼろぼろの手の平を見て泣くところに生きていますね。老人の帰りが遅かったのを心配していたのではなく、帰ってくることは信じていたし、そのうえで漁師としての誇りを見せられたことに感動したように思われます。

老人と海

¥572

老人と海
アーネスト・ヘミングウェイ
高見浩(訳)

ノーベル文学賞をもたらした文学的到達点にして永遠の傑作。

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【狼の幸せ】富嶽三十六景になぞらえた36編、イタリアンアルプスに暮らす男女を描く

葛飾北斎の富嶽三十六景になぞらえて36章の掌編小説のごとく構成されている本です。まずは最初から最後まで普通に読んでみて、再読の際は適当なページをめくって章ごとにつまみ読みしても楽しめそうです。

何かが消えて、別の何かがその後釜に座る。 世界はそんなふうに出来ているんだよ。

23章 沼 ファウストの父親
Palo Cognetti

1978年ミラノ生まれ、映像制作の仕事に携わった後、作家デビュー。2016年に「帰れない山」でストレーガ賞を受賞。作者が長年構想を練っていた恋愛小説である本作がコロナ渦を機に実現した。

あらすじ

人生に疲れた40歳の作家ファウストは、パートナーと別れ、長年暮らしたミラノを離れてフォンターナ・フレッダにやって来ます。

レストランでコックの職を得たファウストは、そこで知り合ったウェイトレスのシルヴィアと付き合うように。レストランオーナーのバベットや、元森林警備隊のサントルソらとも交流を深めていきました。

やがて、狼たちがイタリアンアルプスからおりてきたころ、シルヴィアから贈られた「富嶽三十六景」の画集を贈られ、冬は仕事がないので別々の道を行きます。

ある日サントルソが事故に遭って運ばれたと聞いたファウストは、麓の病院まで見舞いに行ったが誰もおらず、身寄りがないのかと疑いました。サントルソは見舞ってもらった礼に、ファウストに夏の仕事を紹介します。役所が林の間伐をするので、コックとして同行することでした。

一方シルヴィアはフォンターナ・フレッダの2倍の標高3585mのモンテ・ローザで働くことに。モンテ・ローザの過酷な氷河を目指して、案内人のパサンとともにセッラ小屋を目指していました。

ファウストは休みにモンテ・ローザまで登りシルヴィアと再会します。再開して気が付いたのは、ファウストは以前よりも少し生き生きとして逞しくなったこと。シルヴィアは山に疲れて少しやつれていること。

夏の終わりごろ、ファウストはセッラ小屋まで行き、シルヴィアに誕生日プレゼント「フォンターナ・フレッダ三十六景」を渡しました。ファウストの手書きの短編小説です。

彼はバベットの店を引き継ぐことも伝えていましたが、シルヴィアの反応は期待したものではなく、2人の関係の潮時なのかもという雰囲気が漂います。

人の山に対する考え方は、そこに暮らす人と、遠ざかっている時ではずいぶんと異なるもの。遠くで考えると山の現実はぼんやりとした抽象的な概念になり果ててしまいます。北斎の絵の奥に小さく描かれた富士山のような、てっぺんに雪をかぶったただの三角形になってしまうのです。

書評

作者(パオロ・コニェッティ)自身、作家として行き詰り、この実在するレストランで2年ほどコックとして働いた実体験が反映された物語。そして葛飾北斎が物語のモチーフ、小道具として重要な役割を果たしています。

今この瞬間を生きる人々の暮らしぶりと、そんな人間たちに無関心な泰然自若としていつもそこにある山とのコントラストを描いているようでした。

それほど長い本でもなく200ページちょっとを36章に細切れにしているので、サクサクと読み進めやすいです。読み終わった後も、それぞれの章をかいつまんでショートのように読めるのが魅力的な本でした。

話全体では舞台となる山の話がメインなので、登山経験などがあるとより想像しやすいですね。アルプスで1000m登ることは北に1000㎞移動することに近しいという話。標高が上がることで気候や植生が変わるのですが、フォンターナ・フレッダが1815mでそれを北移動に換算するとデンマークやノルウェーに相当します。北極点なら5000㎞弱だからモンブランの頂上といったところ。山登りがはるか遠くへの旅に類似した経験を得られる新たな視点の魅力でした。

ファウストとシルヴィアの二人の恋愛は、前半は甘くきざったらしい雰囲気でしたが、後半にかけてふわふわと自然消滅していきそうな怖さがあります。山のレストランは季節労働であり長く一緒にいられるわけでもありません。二人は年齢も未来も山に対する気持ちも違うところがあって、恋愛模様の変化と人生の移ろいが表現されているようでした。

ファウストの魅力

フォンターナ・フレッダで得た教訓は「食事の支度をする人間は常に必要とされているが、書き手の需要は高くない」

作家としてうだつの上がらないファウストですが、彼には人間的な魅力があって、まず山に移住してあっさりと仕事をみつけたこと。そして出会う人それぞれ、うまく関係を手繰り寄せて山での暮らしに溶け込んでいったこと。

彼の作家業が大成するかは分からないけど、ここでの暮らしが幸せなものになっていくような予感は感じられました。

そしてなぜタイトルが「狼の幸せ」なのか。

山ってやつは狼と風の領分だからな。

38p 6章 倒れた森 サントルソ

木々は動物とは異なり幸せを求めてどこかに行くことができないので、種が落ちた場所で幸せになるためにどうにかするしかありません。

しかし不思議なのは狼で、なぜか落ち着かず移動を繰り返して不可解な本能に従って動きます。どこかで獲物があふれていても何かが定住を妨げせっかくの恵みを放り出し、常に新天地を求めています。雌のにおいを追い、群れの遠吠えを追い、明確な目的もなかったりもして。

ファウストはそんな狼だったようです。ファウストに限らずシルヴィアも、バベット、サントルソも。どこかで合理的な判断とはかけ離れた選択のもと、狼のようにフォンターナ・フレッダに辿り着き、また別の世界に移っていくのかもしれません。

イタリアの食について

ファウストが山男たちにふるまう食事や、イタリア独自の食事メニューが出てきます。

例えばポレンタというメニューがあります。聞いたこともありませんね。コーンミールを粥状に煮たイタリア料理で、粗挽きトウモロコシ粉を沸騰した湯やだし汁に振り入れて煮て、焦げ付かないようにこねながら煮上げるもの。

また、グラッパというお酒が度々出てきます。イタリアで定番の食後酒で、ワインを造る際のブドウの絞りかすを使った蒸留酒。果汁以外にも種や皮も含んでいることや、白ブドウだけではなく黒ブドウも使うのがブランデーとの違い。作中では松ぼっくりを入れた飲み方なども登場しましたが、ストレートで飲むのがメジャーです。エスプレッソに少量混ぜるカフェ・コレットという楽しみ方もあるみたいです。

イタリアンレストラン ルーチェ

羽田空港の近くのホテルに泊まった際、近くのイタリア料理店で飲みました。

この本を読んでいたからグラッパというのが初めて目についたのでしょうね。アルコール度数は40度くらいできついけど、ほんのりレーズンのようなブドウの香りがあって食後にぴったりでした。

ちなみにグラッパはサイゼリヤでも普通にメニューにあったみたいです。

狼の幸せ

¥2,640

狼の幸せ
パオロ コニェッティ
飯田 亮介 (訳)

ストレーガ賞受賞作家が描く、人生やり直し山岳小説。