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【むらさきのスカートの女】不穏な女を巡るストーカー小説

一時期この本がTikTokで多くの人に紹介され気になっており、たいてい内容が「不穏」「不気味」とホラー要素強めな感じで話題になってました。

確かに不穏な空気が漂う世界観ではあるかもしれませんが、読んでみると意外とあっさりしていると思います。

今村夏子

2019年本作「むらさきのスカートの女」で芥川賞を受賞。2020年広島市民賞を受賞した。

あらすじ

語り手である私、通称「黄色いカーディガンの女」が、執拗に「むらさきのスカートの女」を観察して、徹底して一人称視点で進行する物語。まるでストーカーになった気分を味わえる本です。

むらさきのスカートの女の容姿の子細から、職歴、住んでる場所、日々の習慣まですべて把握している私。

その目的はただ彼女と友達になりたいだけでした。私はむらさきのスカートの女が、自分と同じ職場で働くようにどうにか誘導していきます。

友達になるにはまず接点が必要なので、彼女と同じ職場で働くのが最も効果的だろうと思いたちます。彼女がいつも座る公園のベンチに求人情報誌を置いて、私の職場の求人に目印をつけてあげました。それなのに彼女は石鹸工場、肉まん工場、夜勤の棚卸、電話オペレーター、カフェ店員など、私の職場である目的のM&Hホテルに来ません。

3か月経ってようやくお目当ての職場で面接の運びに。常に人手不足で来るもの拒まずだから絶対受かるだろう。

初日にみんなの前で自己紹介するが、声が小さすぎていびられていました。どうやらむらさきのスカートの女の本名は「日野まゆ子」というらしい。

後に所長と発声練習をしてからしっかりと挨拶ができるようになり、周りのスタッフも彼女を見直していきます。仕事を教える塚田チーフは、むらさきのスカートの女の素直な性格、きちんと挨拶できるところに好感をもちました。かわいがってもらい、適度なさぼり方なども教わり、要領よく仕事に順応していく。彼女は通常1~2か月かかるトレーニングをたった5日で終了し、早々にホテル高階層のVIPなフロアを任されました。

ある日、彼女は通勤時に痴漢にあって、それ以来所長の車で迎えに来てもらい出勤するように。職場に馴染んだことや、人間関係が増えたこともあって雰囲気まで変わってきました。化粧っ気がつき、自信がつき、ひとことで言えば美人になりました。

職場ではむらさきのスカートの女と所長が不倫関係にあることが噂されるように。それは事実で、私はある日のデートを1日尾行します。カフェ、映画、本屋、居酒屋とすべて尾行し、居酒屋でも少し離れたカウンターで食事。そして、所長は女の家に泊まりました。

一方で最近ホテルの備品の消耗が激しく、従業員が横領しているのではないかと支配人から全社員が注意を受けます。

所長との不貞や、スピード昇進したこともあって、むらさきのスカートの女は職場で次第に孤立していく。さらに他の人よりも時給が高いなど噂に尾ひれがついて、立場がどんどん悪くなっていきました。所長も危機感を覚えて、彼女に家に訪れ備品を盗んでいることなど白状しなさいと迫ります。これをきっかけに話がこじれて、女は所長をアパートの手すりから突き飛ばしてしまいます。

書評

初めて読む作家でしたが、期待以上の面白さ、純文学よりもエンタメ寄りな感じで楽しめました。

客観的な描写や語りがなく、主人公の一人称視点で話し言葉のように進むので、文章が読みやすいかと思います。そして終始漂う不穏な空気が特徴的ですね。

どこまで観察してるのか、なんでさっさと話しかけないのか、主人公は本当は何が目的なのか?こんな風に気持ちを駆り立てながら読み進めることになるでしょう。

序盤はむらさきのスカートの女が街でちょっと異質な存在であるかのように思われました。見た目はみすぼらしい感じで、一定の習慣に沿って生活しているものの普通の人ではないような雰囲気。

しかし物語が進むにつれて、本当にやばい人間はこの語り手だと気が付き始めます。むしろ、むらさきのスカートの女は、常識的で人間味ある普通の女性だと感じてきました。

語り手がさも普通の行動かのように淡々と話す行動には、冷静になって考えてみるとかなり狂気的なものが多くあります。

  • 肉屋のショーケースにタックルして壊した
  • デートを尾行した居酒屋で無銭飲食
  • 所長が忘れた高級サングラスをパクる

そして終盤でようやく語り手(黄色いカーディガンの女)の正体が明かされます。

信頼できない語り手

この主人公、実は超嘘つきの可能性が高く、彼女の言動には多くの嘘が混じっていると断定していいでしょう。

このような手法を「信頼できない語り手」と呼び、ミステリー作品で読者のミスリードを誘うためによく使われます。それを純文学に持ち込んだのが、この作品に独特の雰囲気を醸し出しているのかもしれません。

私が考察するに、彼女が嘘つきである決定的な証拠がありました。

主人公は下戸だから一切お酒を飲めないと周知させていましたが、彼女はむらさきのスカートの女のデートを尾行した際に、 店でビールを3杯も飲んで食い逃げしました。

このように決定的な証拠を残しつつも、主人公である語り手が信頼できない言動は多く描写されていました。

昨夜のむらさきのスカートの女が何色の何を穿いていたのか、わたしはどうしても思い出すことができなかった

150p

この言動からも、もっと言えば『むらさきのスカートの女』自体が形骸化してないかとすら思われます。客観的なむらさきのスカートの描写がないこと、ただそう呼んでいるだけでむらさきのスカートを着用してるのを観測している場面もありません。

話は分かりやすいですし、ストーリーも不穏な展開を秘めながらも退屈なく進んでいきます。スラスラと読みやすい小説であり、ちょっと踏み込んでみると考察できる楽しみもありました。

むらさきのスカートの女

¥682

むらさきのスカートの女
今村夏子

むらさきのスカートの女を執拗に観察する女の物語。第161回芥川賞受賞作。

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【蛇を踏む】踏んだ蛇が女に化けて家に居たので一緒に住んでみた

藪で、蛇を踏むと「踏まれたので仕方ありません」と声がして、蛇は女になりまし。「あなたのお母さんよ」と、部屋で料理を作って待っていました…。若い女性の自立と孤独を描いた芥川賞受賞作。

軽く読み切れそうな薄い文庫本をと思って手に取った小説でしたが、思いのほか内容が難しくて読むのに苦戦しました。

よくわからないけどね、しょわなくていいものをわざわざしょうことはないでしょ

蛇を踏む コスガ
川上弘美

1996年「蛇を踏む」で第115回芥川賞受賞。その他数々の文学賞を受賞し、その功績から紫綬褒章を受章。芥川賞、谷崎潤一郎賞の選考委員をつとめる。

あらすじ

職場の数珠屋「カナカナ堂」へ向かう途中、公園で蛇を踏んでしまい、その蛇は「踏まれたらおしまいですね」と言い、人間の姿に化けてひわ子の家の方角へ消えていきました。

ひわ子はコスガと一緒に数珠を納品しに甲府のお寺へ行きます。そこで住職が最近蛇が増えてると世間話をしたもので、ひわ子はコスガに蛇を踏んだ話を聞かせました。

部屋に帰ると昼間の蛇が50歳くらいの女に化けて夕飯を作っています。蛇はヒワ子の好きなご飯も、使うべき食器も、ビールにつぎ足されるのが嫌いなことも全て把握しているのです。

蛇にあなたは何者なのかと尋ねると「ヒワ子ちゃんのお母さんよ」と返答。心配になって本当の母である静岡の実家に電話をかけてもいつも通りのやり取りがあっただけで、母と名乗る蛇が何者なのかはわからずじまいでした。

翌日カナカナ堂に出勤するとコスガさんに蛇は追い出しなさいよと忠告されます。

蛇と共に過ごす三日目の晩、食事で気が緩む前に開口一番に蛇の存在を追求しました。しかし何度聞いても蛇の返答は「あなたのお母さんでしょう」と一点張り。

そうして蛇が来てから二週間が過ぎたころ、コスガさんと喫茶店で向かい合い再び蛇のことを聞かれました。そして彼の口からうちにも20年前から蛇が居着いてると告白されます。それはコスガの妻ニシ子についてきた蛇で、ニシ子の叔母だと名乗って最初に追い出せなくなったうちに20年も経っていました。

そんな蛇との共生を嬉々として受け入れてしまってるニシ子のことがコスガは怖いと漏らすのです。

書評

蛇を踏んだ描写や化ける様子など生々しい書き方が特徴的でした。

部屋じゅうに蛇の気配が充満していた。

引出しを開けるとノートやペンの間から小さな蛇が何匹も這いだした。這いだして私の腕から首をのぼり耳の中に入ってくる。痛くはないのだが、外耳道に入り込んだ途端に蛇たちは液体に変わってそのまま奥に流れ込む。冷たい。

まだ入り込んでいない蛇を阻止しようとして首を強く左右に振った。振ると、耳の奥で水に変わった蛇が粘稠性を増しながら内示に向かう。ねばねばとした水が三半規管のあたりを満たす。

蛇を踏む

本書から引用しましたが、文章でありながらなまめかしく不気味に想像させる力を感じます。その想像力を助ける確かな文章力が、さらに世界観全体を不穏に作り上げているような気がするのです。

特にニシ子が蛇に憑かれているのを知ってから、彼女の様子がおかしくなってくる様子が怖いです。

主人公のヒワ子は不器用な性格で、付き合い下手なのがうかがえます。前職は教師として生徒に余計な気をまわして自ら消耗して退職したこと、住職の話を聞いてるとそばを食べるタイミングを失うところ、コーヒーはニシ子さんじゃないと淹れてはいけないと思い込むところ。このどうしようもなく世渡りが下手なところが、蛇につけいれられてるようにも見えてしまいます。とても隙だらけに思えてしまうんですね。

一方で女に化けた蛇が家に住み着いてる事実をすんなり受け入れてるのが不思議。不器用な生き様とは対照的な肝っ玉を見せられているようですが、カフカの「変身」のような実存主義的な文学スタイルとも捉えられそうです。

そして蛇の世界とはなにか。個人的には安楽の世界のようなイメージを抱いています。

不器用で周囲との付き合いが難しいヒワ子、親とも疎遠とは言わぬまでも仲が良いわけでもない。対人関係における適切な距離感をつかめないヒワ子にとって、彼女が蛇に感じた「壁を感じない親密さ」はまさに願ってもないものなのかもしれません。

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【ハンチバック】重度障害者が純文学を通して訴えた倫理と読書バリアフリー

少しボリュームが軽めの小説を読みたいなと思っていたころ、芥川賞を受賞して話題になっていた本書を手に取りました。単行本でもかならライトなボリュームで、サクッと読み切れそうと思っていました。

しかし読んでみて衝撃。社会へ投げかける問いや、障害者ならではの視点による鋭い意見など、この短い物語には重苦しいテーマがたっぷりつめこまれていました。

市川沙央

本作「ハンチバック」で第128回文學界新人賞を受賞し小説家デビュー。同作で第169回芥川賞受賞。2024年、神奈川県大和市の市民栄誉賞を授与された。

あらすじ

筋疾患先天性ミオパチーによる症候性側彎症。井沢釈華の病気で、彼女にとってはグループホームの十畳ほどの居室と、キッチン、トイレ、バスルームが現実的世界のすべてでした。

ヘルパーやケアマネなど限られた人しか関りもなく、彼女の世界はかなり限定的なものである。

そんな世界を押し広げてくれるのがインターネットでした。TwitterなどのSNSを駆使して、グループホームの一室にいながらも世界とつながっている感覚です。

井沢釈華にはグループホームを含め数棟のマンションの家賃収入があり、数億単位の現金資産も相続しており金には困りません。

ホームの雰囲気はそれなりに良く、ヘルパーやほかの利用者との交流も最低限ありました。ただ病気のことを除いては不自由のない生活といえるでしょう。

ある日、井沢がVRゴーグルを共有スペースに備品として寄付する話をLINEに投稿。身体が不自由な我々だから、せめて景色だけでもどこにでもいけるのはいいねという話があがっていたので、それに対する気遣いでした。

ヘルパーの田中は井沢に対して「弱者が無理しなくてもいいんじゃないですか。金持ってるからって」と皮肉を込めて返事。田中は自らのコンプレックスをこじらせているような、いわゆる弱者男性であることを自認していました。それはコミュニケーション能力か、経済的にか、男としてのジェンダー的にかは分からないが。低身長であること、根暗な性格であること、介護という一般的に低賃金労働に従事していることなど、いくらでも該当します。

そんな攻撃的なやり取りがあった直後、マネージャーから連絡。井沢釈華の入浴介助の日に女性ヘルパーがPCR陽性だったため、田中が担当することになりました。

入浴介助を終えると田中が唐突に井沢のTwitterアカウントのつぶやきについて言及しました。それは井沢釈華がTwitterで呟いた「妊娠して中絶したい」という彼女の歪んだ願望への蔑みでした。

井沢は「田中さんにもどうしても欲しいものやしたいことくらいあるでしょう」と答えると「井沢さんが持っているくらいの財産が欲しい」と返答。

田中ヘルパーにTwitterアカウントがばれ、井沢釈華の性癖や歪んだ願望を含めた人間性を侮辱されたこと。弱者男性であるコンプレックスの八つ当たりのはけ口にされたのも受け入れながら、後日彼女は田中にある取引を持ち掛けます。

「いくら欲しいのですか」と尋ねると田中は「1億」と場当たり的な金額をふっかけてくるが、それくらい井沢釈華にとってはかわいい金額でした。

そして田中の健常な身体に価値をつけて1センチ100万円分の1億5500万円で取引を打診。田中は承諾し井沢は小切手にサインをします。そして最終的にとった二人の行動と決断とは――。

書評

触れにくい話題である障害者の性やSEXを正面から扱ってるのが衝撃でした。しかも軽い下ネタ程度ではなく、命の重み、性の在りようなどかなりセンシティブな内容です。

私自身、障害者のグループホームで5年ほど働いていたことがありました。そして、そこで生活する利用者たちの性事情というのも様々あったものです。そういった点において、未だに納得のいく向き合い方というのは分かりません。

そして障害者である当事者視点から世間への怒りや心情吐露が印象的でした。主人公の持つ身体的な歪み、ないしは歪んだ願望が社会と相入れないことを強く非難されています。

読んでいて自分を健常者として前提に立っていると、まるで責められているようで辛くなります。それだけ迫真の主張が込められているのでしょう。

また、Netflixやpairs、ヤフコメ、スパダリ、ナーロッパなど、アプリケーションや現代的スラングがよく出てくるのも特徴的でした。コロナなど現実の世情も絡めています。

特にTwitterが重要な設定で、井沢はSNSで発言して炎上しそうなものはとりあえずEvernoteに吐き出して主張を寝かせています。反射的に思ったことを何でも発言していると、思わぬところで炎上しかねないですからね。

中絶がしてみたい、私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう。

井沢釈華

この発言がターニングポイントになっていました。

歪んだ願望や死生観を持っているため、そこだけ切り取るとやばい人に見えますが、思っていることと現実を釈華は丁寧に棲み分けています。

田中にいくら嫌味を言われても冷静に大人な対応で返していますし、基本的には常識人で、できる限りで社会に貢献しようともしていました。

それだけに彼女の堕胎願望とういものを理解するのが難しいところ。

ただ「気持ち悪い」と一蹴して井沢釈華を、ひいてはこの本を否定してしまうと、それこそが障害者との相容れない様相を読者の中に生み出してしまいかねません。

井沢釈華の願望や社会に対する怒りをすくいあげて、丁寧に読んでいくとこの本の見方も変わりそうです。

ハンチバックとは

タイトルの『ハンチバック』とは『せむし』のことで、背骨が曲がっている状態を表す差別用語です。少し古い小説などを読んでいると度々見かけることもありましたが、最近では聞きなれないですね。

ここから主人公、井沢釈華の歪んだ願望や人物像としての歪みを表現しています。

生むことはできずとも、生殖機能はあるのだから堕ろすところまでは健常な人たちのまねごとのように、その背中に追い付くことができるだろう。

井沢釈華

歪みを抱えながらも、そのまっすぐな背中を渇望してるのが伺えます。

健常者優位主義(マチズモ)

世間ではこの本の「読書のマチズモの指摘」についてもよく取り上げられていました。「読書」という行為そのものが健常者優位主義(マチズモ)に働いているのです。

井沢釈華にとって厚みのあるページを抑えながら読む行為は背骨に負荷をかけます。通常誰もが普通に可能な活動が負担になること、だから本作では井沢釈華が紙の本を強く憎んでいます。

紙の匂い、ページをめくる感触、残りのページ数からの緊張感など、そんなものは健常者の呑気な言い回しだと主張されていました。電子書籍が一般的な現代でも高度な専門書やマイナーな本などはまだまだ電子化されていませんからね。

作者もインタビューで読書文化のマチズモを指摘して、読書にとどまらず社会のいたるところで障害者がいないことになって設計されていると話されていました。

ちなみに私は本は紙で読むほうが好きです。そして自分自身これまで社会生活上で不都合を感じない限り、それ以上想像力を働かせようとは思っていませんでした。そりゃそうです、普通に本を読むことが普通ですから。

しかし事情を知ったならば、そこに想像力を広げて世の中を見る視座を高めるために、こういった指摘を受け入れることは大切です。

最後のパート

「ゴグよ、終わりの日にわたしはあなたを、わが国に攻めきたらせ、あなたをとおして、わたしの聖なることを諸国民の目の前にあらわして、彼らにわたしを知らせる。」

本書の最期、語り手が替わって、早稲田大学政治経済学部の紗花という源氏名で風俗嬢をしている女の子が登場。さらに謎の聖書からの引用文。

設定が一部冒頭のコタツ記事から一致するので、井沢釈華による創作だと推察されます。

このパートは意図が分かりにくく、文学賞を受賞する選評の際に議論となったようですね。私もよく分からず、その部分なくても良かったのではと思っていました。

聖書の解釈が必要な部分なので、このあたりをどう読んでいくか、より考えさせられるところですね。


市川沙央⇄荒井裕樹 往復書簡「世界にとっての異物になってやりたい」|文學界note

もともとライトノベルを書いていたこともあり、本書も意図の解釈を抜きにすれば文章自体とても読みやすいです。

作者が本作を通して宗教や過去の事件を絡めた文学性、障害者、ジェンダー、命をとりあげた倫理観など。幾層にも考え積み重ねられた思考の断片を見せられた気がします。

ぜひ、こちらのnote記事による書簡も読んでいただきたいです。

ハンチバック

¥1,200

ハンチバック
市川沙央

第169回芥川賞受賞。選考会沸騰の大問題作!